講演録・子どもと文学2👫

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論上』の報告つづき

*************

第2章ファンタジー
その6講演録・子どもと文学ファンタジーの特質 1965年発表

前回の後編です。

ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』のあと、イギリスではファンタジーの傑作が次々と生まれました。

マクドナルド
キャロルの友達のジョージ・マクドナルドは、イギリス国教会の牧師さんです。宗教的な神秘的なファンタジー『北風のうしろの国』を書きました。
ロンドンの辻馬車屋の男の子ダイヤモンドが主人公です。現実の過酷な日常が描写され、同時に、彼は北風に連れられて、不思議な国に行って霊的な体験をします。
現実とあちらの国を行ったり来たりします。まるで目に見えるように描かれます。
北風は、神秘的な女の人の姿をしています。とっても霊的な存在です。
マクドナルドは、あちらの国での経験を通して現実の人生の問題を深めていくのです。
引用
成熟した大作家の人生の知恵といったようなものが、想像力によって具体化され・・・

ハドソン
博物学者のW・H・ハドソンは、『夢を追う子』を書きました。
主人公のマーチンは、大自然に溶け込んで、その精髄をみきわめようとして、原野から森、海へとさまよいます。
引用
根本のテーマは、けっして到達し得ないもの、われわれのすぐ目の前にありながら、けっして手にとることのできない美に対する永遠の探求である。

デ・ラ・メア
神秘詩人で子どもの文学の大長老ウォルター・デ・ラ・メアは、『ムルガーのはるかな旅』を書きました。
ムルガーは猿の王子です。猿の世界を構築しているのですが、猿語を使ったり、いかにも猿らしい(?)感覚がリアルだそうです。
これ、まだ読んでないので図書館が開いたら借りに行きま~す。
引用
実在感のこいサルの世界の中で、サルたちは、ふしぎな事件のかずかずにであって、死と生、無常と永遠、友愛と信頼、おそれとのぞみ、悲しみと勇気を経験して成長していきます。

ケネス・グレーアム 『たのしい川べ』
ヒュー・ロフティング 『ドリトル先生』
A・A・ミルン 『クマのプーさん』
これらは、題名だけ挙げてあります。ほとんど説明なし。

トールキン
オックスフォード大学の古文学教授のトールキンは『ホビットの冒険』を書きました。
専門家としての古代伝承の知識や神話伝説の学力を、妖精たちの世界に生き生きとよみがえらせました。
引用
トールキンは、想像力は人間のごくふつうの心性なのだから、ファンタジーは大人にも読まれ、むしろ大人に深く得るところがあらしめなければならない・・・と述べています。
ヤンは、『ホビットの冒険』のあとの指輪物語シリーズが大好き!大人になってから読んだのよ。

ノートン
メアリー・ノートンは、現代の小説ふうのファンタジー『床下の小人たち』を書きました。
小学校高学年の子が大人の小説に向かう入り口になる作品。
ノートンは、子どもの秘密の小さな世界を、大人はすぐ壊そうとするといいます。でも子どもはまた作り上げていくとも。
引用
この物語は、会話が傑出しておりまして、それによって人物を浮き出させ、ストーリーを運びます。

ルイス
C・S・ルイスはケンブリッジ大学の中世英文学教授。『ライオンと魔女』にはじまるナルニア国シリーズを書きました。
人間の子どもたちが何かの拍子でふっとナルニアという架空の国に入ってしまいます。そこは、アスランという強力なライオンの支配していた国なんだけど、悪い魔女によって乗っ取られ、人びとが苦しんでいます。魔女は人間の好奇心が生み出したものでした。
引用
ファンタジーの最初のテーマが、生(なま)のまま頭にあるときは、たしかに今日の全世界の重みにひしげるような重いものにちがいありません。けれども、子どもの物語としてルイスはなんの苦渋もとどめない明るい空想、楽しい想像にゆだねて、彼の問題の核心を徹底的に変身させてしまうのです。

はい、きょうは、ここまで。
読んでくださってありがとうございます。
お疲れさま~

不思議の国のアリス👱‍♀️🐰

閑話休題

きのうの画像、何の挿絵か、わかった人!!!

そう、『不思議の国のアリス』です。
全体を貼りますね。

アリスの挿絵はたくさんの画家が描いていますが、これは初版のぶんで、ジョン・テニエル画。いっちばん最初のアリスね。
アリスの作者ルイス・キャロルは、はじめ自分で挿絵を描いたんだけど、出版に当たって、プロの画家に書いてもらうことにしたんだって。それが、テニエル。
今日の画像もテニエルの挿絵です。

1862年、ルイス・キャロルは、ボート遊びのとき、友人の3姉妹に即興でお話を語りました。それが大うけしたのです。
姉妹に会うたびに続きを語りました。末の妹の名がアリス、10歳。
出版されたのはその3年後です。

キャロルは、知り合いの家族に、「この話、どうやろか?」って、原稿を回してきいたそうです。
で、子どもたちが、おもしろ~いって言ったので、出版することにしたのだそうです。

それまで、子ども向けのこんなナンセンスな物語はなかったので、出版界では、どちらかというと「?????」っていう批評がほとんどだったそうです。
ところが、本の売り上げは上々。どんどん増刷されて、ルイスが亡くなった1870年には、イギリスだけで8万6千冊!ドイツ、イタリア、フランス・・・でも翻訳されていました。

大人が????なのに、なぜ売れたのか?
もちろん、子どもたちの熱狂的な支持があったからです。

『不思議の国のアリス』は、今では、奇想天外な筋ときわだったナンセンスとで児童文学に革命を起こした作品と評価されています。
どんな道徳的な目的も持たないで、純粋に子どもを喜ばせるために想像された物語です。

さあ、読んでみよう~
ディズニーや絵本などの翻案されたものではなく、完訳で読んでみましょう!

明日は、瀬田先生の講演の続きを報告しますね。

講演録・子どもと文学🏡

『瀬田貞二子どもの本評論集児童文学論上』の報告第14で~す。

*********

第2章ファンタジー
その6 講演録・子どもと文学ーファンタジーの特質 1965年発表

この年、岩波市民講座っていうのがあってね、瀬田先生が「子どもと文学」って題して講演した、その記録。
その前の週は石井桃子さんの「子どもと読書」っていう公演があった。
いいねえ、聞きたかったねえ。55年前(笑)

まず瀬田さんが石井さんの講演のまとめをしてるので、引用します。聞きたいでしょ。
昔話というものが、小さい子どもの心の働きにそい、また精神の成長にとって非常に大切である。さらにそのさき子どもの読書に、ファンタジーが非常に大切ではないか、そういう文学を子どもとしての段階で通っておきますと、のちに大きくなって、その人がひとの心をよく理解できたり、ものの奥底にひそむかくれた真実というものを、正しくつかんだりするような能力が、ごく自然につちかわれるのではないか

これ、石井桃子さんの講演内容ね。
なるほど~って、思いますね。
で、それを受けて、瀬田先生は、ファンタジーの意義を具体的に説明してるのが、今日報告する章段。
長いので、前半だけまとめます。

小説的な児童文学ーリアリスティックな物語
『ハイジ』
『四人の姉妹』
『あらしの前』『あらしのあと』
『ツバメ号とアマゾン号』
『ふくろ小路一番地』
これらは、私たちの日常と地続きの世界で物語が展開します。

それに対して。

空想物語ーファンタジー
実際には起こるはずのない、非現実の、想像世界の物語です。

ただし、ファンタジーは、かつては大人の文学であって、ホメロスの『オデュッセイア』とダンテの『神曲』、スウィフトの『ガリバー旅行記』が例として挙げられています。
ところが科学が発達して、大人は昔話を信じなくなり、リアリスティックな小説が幅を利かせるようになった。

すると、大人が捨てた空想の産物を、子どもがそっくり拾い上げた。
グリム童話、『ガリバー旅行記』など。
子どもには空想力があって非現実と現実を行ったり来たりする能力があることと、いっぽうで、成長するためのはつらつとした好奇心を持っているからです。

大人にもそんな新鮮強力な想像力を持っていて、子どものためのファンタジーを書いた人がいた。
さて、だれでしょう?

ここからは、代表的古典的なファンタジー作家が具体的に上げられます。

ハンス・クリスチャン・アンデルセン
1835年に昔話を元にした童話を発表し、どんどん自分の中の想像力を引き出して捜索していきます。
グリムの初版が1812年で、1857年まで版を重ねていくのと年代的に重なっていますね。子どものためのファンタジーの萌芽の時代だったのです。
おっと、もしいまアンデルセンを読もうと思ったら、改作してあるのが多いので気を付けて。
お勧めは、岩波文庫。全作品読めます。
絵本は避けましょう。アンデルセンは物語しか書いていませんから。あなたが自分でイメージしなくっちゃ。

ルイス・キャロル
『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』
「まったく純粋な空想からだけでできている空前のファンタジー」と瀬田先生はいいます。
アリスは、常識を打ち砕いて、別次元の感覚を組み立てて成立しています。子どものとらわれない自由な内面に近づいたといえるでしょう。
瀬田先生は、チェシャ猫が幻のように突然現れて、ニヤニヤ笑いだけを残して消えていく場面を挙げて、こう言います。

その世界がどんなに日常世界とちがっていても、その世界なりの実体感がなくてはならない。眼で見える真実らしさがなければいけない。・・・
ファンタジーは、リアリティをもってはじめて成り立つ

これを、「ファンタジー固有の文法」だといいます。

ほら、出ました、文法という言葉。
昔話の文法(語法)と通じませんか?

昔話は、耳で聞かれてきたという特性から固有の語法を持ったわけだけれど、同時に昔話はファンタジーでもあるわけです。
「むかし、あるところに」と、冒頭でウソ話だと宣言しているにも関わらず、まるで本当に起こっているかのようなリアリティを持って聞きますね。

はい、今日はここまで。
次回は他のファンタジー作家が登場します。

ほな、目の保養~

キリスト教児童文学のあり方👼

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論上』の報告
つづく~よ、どこまでも~

**************

第1章ファンタジー
その5 キリスト教児童文学のあり方

日本で最初にキリスト教の立場を児童文学であらわしたのは、『小公子』
1890年、若松賤子が訳しました。名訳だと瀬田先生はおっしゃっています。
若松さんという方ご自身が厳格なクリスチャンだったそうで、作品の精神を深く理解し、しかも、宗教臭さを感じさせないみごとな訳とのことです。
残念ながら、この本は読めていません。図書館が休館やさかい。

そののち、オルコットの『四人の姉妹』(『若草物語』ですね~)
オルコットの作品には、一貫して、ピューリタン精神が流れています。
それを、やはり露骨には表していない。文学として昇華されているわけです。

ここでリリアン・H・スミスの考えをまとめています。引用します。

作者にはかならず訴えたい目的、言いたい心があるべきだが、その目的が生(なま)に表われ、お説教となって中心にすわっては、子どもの興味をひかない。それをかくして、冒険や劇的要素をうち出し、おもしろく楽しく表現されなければならない

この説を完全に実証する傑作が、C・S・ルイスの「ナルニア国物語」のシリーズです。
全部で7冊なんだけど、それぞれの関係は、最後の巻で俯瞰できるように作られています。
それはそれは、面白い冒険が繰り広げられます。
テーマは「善と悪との戦い」です。

リリアン・H・スミスは次のように言っています。

C・S・ルイスは、自分が訴えようとする真剣な問題を子どもによく話してきかせるためには、何よりもまず、子どもがその物語のなかに楽しくておもしろいストーリー(話の展開)を感じなければならないことをよく知っていたのですし、次にそれを作者のわき出るような奔放な空想力にのせて、読者をわれしらずふしぎな国へ運びこむという、新鮮で力強い語り方を心得ていた

瀬田先生は、宮沢賢治も同じだといいます。
賢治も、空想の世界という方法で「ほんとうのこと」を書いているからです。
賢治は熱心な仏教徒でヴェジタリアンでもありました。
けれども、ルイスも賢治も、文学の中に直接に宗教的な問題を取り入れませんでした。

感動的な引用
子どもは自分にまちがいなくわかり、興味を強くひかれ、次々と事件として動いていく対象を、自分の目で見、自分の心で判断したいのです。いささかの教訓や説教がちらついても、そっぽをむいてしまいます。そういうかたくなな自由人の耳をひきつけるのに、空想的な物語ほどふさわしいものがほかにあるでしょうか。

「子どもは、・・・自分の目で見、自分の心で判断したい」
わたしは昔話を子どもに語っているとき、それを強く感じるし、また、昔話という空想物語がその子どもの願望に応えていると感じます。
けれどもそれは、昔話ならどんな再話でもよいというのではなく、よいテキストでなければいけません。だから、よい再話をしたいと思うのです。

子どもとウソ😁

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論上』の報告

***********

第1章ファンタジー
その4 子どもとウソ 1959年発表

民俗学者柳田国男の『不幸なる芸術』という著作の中に「ウソと子供」という文章があります。それを紹介しながら、瀬田先生の考えが書いてあります。

まず、子どもはウソをつくものなのに、大人は「ウソは泥棒の始まりだ」などどいって戒めるのはだめだといいます。

歴史的にみると、ウソはイツワリ(欺瞞)ではなくて、
1、人びとが集まって楽しむ座興の一つ。
2、敵をやっつけるための力いっぱいのたくらみ。
だったといいます。

1は、例えば曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)
落語なんかもそうでしょうね。
昔は、村に一人は評判のウソツキ爺さんがいたりしたそうです(笑)。それが、亡くなった後も話として残っていった。
人生を明るく面白くするためには、ウソは欠くべからざるものでもあったといいます。

2は、例えば諸葛孔明(しょかつこうめい)や山本勘助(やまもとかんすけ)といった軍師。
実用向きのウソだったんですね。
これも、話として伝えられる。

自分勝手なウソは、「欺(あざむ)く」といいます。
こういうことをするのは悪人。

子どものつくウソは、1や2の下地だと柳田はいい、瀬田先生もそう考えています。

例として、ある子どもがお使いに行って、油揚げを買ったんだけど、帰りにちょっと食べちゃった。家に帰っておかあさんに、ネズミがかじって走って逃げたとウソをついたという話を挙げています。
こうした子どものウソを、事実と違うからと言って責めてはいけない。
そんなとき、おかあさんはどうしたらいいのか。
だまされたふりをするのもいけない。
自然な感情のままに笑うのが一番だそうですよ。

なるほどな引用
事実とちがう、と、いうことは、その点だけで目くじらを立てて子どもに許さないおかあさんがたがいますが、人生のうるおいである諸々の芸術は、おそらく皆事実とちがいながら、真実をめざしているのです。

こどものそんな空想する力を大切に伸ばしてやりたいといいます。
そして、柳田が発見して育てた昔話こそ、いちばん空想の要素が豊かなのです。

子どものウソ、子どもにかかわる大人がもう一度考えてみるべき問題かもしれません。