キリスト教児童文学のあり方👼

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論上』の報告
つづく~よ、どこまでも~

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第1章ファンタジー
その5 キリスト教児童文学のあり方

日本で最初にキリスト教の立場を児童文学であらわしたのは、『小公子』
1890年、若松賤子が訳しました。名訳だと瀬田先生はおっしゃっています。
若松さんという方ご自身が厳格なクリスチャンだったそうで、作品の精神を深く理解し、しかも、宗教臭さを感じさせないみごとな訳とのことです。
残念ながら、この本は読めていません。図書館が休館やさかい。

そののち、オルコットの『四人の姉妹』(『若草物語』ですね~)
オルコットの作品には、一貫して、ピューリタン精神が流れています。
それを、やはり露骨には表していない。文学として昇華されているわけです。

ここでリリアン・H・スミスの考えをまとめています。引用します。

作者にはかならず訴えたい目的、言いたい心があるべきだが、その目的が生(なま)に表われ、お説教となって中心にすわっては、子どもの興味をひかない。それをかくして、冒険や劇的要素をうち出し、おもしろく楽しく表現されなければならない

この説を完全に実証する傑作が、C・S・ルイスの「ナルニア国物語」のシリーズです。
全部で7冊なんだけど、それぞれの関係は、最後の巻で俯瞰できるように作られています。
それはそれは、面白い冒険が繰り広げられます。
テーマは「善と悪との戦い」です。

リリアン・H・スミスは次のように言っています。

C・S・ルイスは、自分が訴えようとする真剣な問題を子どもによく話してきかせるためには、何よりもまず、子どもがその物語のなかに楽しくておもしろいストーリー(話の展開)を感じなければならないことをよく知っていたのですし、次にそれを作者のわき出るような奔放な空想力にのせて、読者をわれしらずふしぎな国へ運びこむという、新鮮で力強い語り方を心得ていた

瀬田先生は、宮沢賢治も同じだといいます。
賢治も、空想の世界という方法で「ほんとうのこと」を書いているからです。
賢治は熱心な仏教徒でヴェジタリアンでもありました。
けれども、ルイスも賢治も、文学の中に直接に宗教的な問題を取り入れませんでした。

感動的な引用
子どもは自分にまちがいなくわかり、興味を強くひかれ、次々と事件として動いていく対象を、自分の目で見、自分の心で判断したいのです。いささかの教訓や説教がちらついても、そっぽをむいてしまいます。そういうかたくなな自由人の耳をひきつけるのに、空想的な物語ほどふさわしいものがほかにあるでしょうか。

「子どもは、・・・自分の目で見、自分の心で判断したい」
わたしは昔話を子どもに語っているとき、それを強く感じるし、また、昔話という空想物語がその子どもの願望に応えていると感じます。
けれどもそれは、昔話ならどんな再話でもよいというのではなく、よいテキストでなければいけません。だから、よい再話をしたいと思うのです。

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