月別アーカイブ: 2020年3月

空想物語が必要なこと🤴👸

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論 上』の報告は、まだまだ続くよ~

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第2章ファンタジー
その2空想物語が必要なこと  1958年発表

このころ、まだファンタジーっていうジャンルというか、名前が市民権を得ていなかったんですね。
それで、まず、ファンタジーを定義しています。

童話=空想物語=ファンタジー
でも、昔話を童話といった時代もあったから、ややっこしいのね。

それで、簡単にいえば、現実の生活とは関係なく、筆者が独自の別世界を作って、それによって現実をかえってはっきり見せるという創作方法のこと。
リリアン・H・スミスの言葉を借りれば、「非現実のなかの現実、信憑しがたい世界の信憑性の雰囲気に」いきている作品ということね。
たとえば、『不思議の国のアリス』
常識を破ったナンセンスの世界なんだけど、真実があって、それが表面には表れていないだけ。

そんな空想の世界に入るには特別な能力が必要だと瀬田先生はおっしゃいます。
平凡な生活をして、平凡な考え方に慣れている者には見ることのできない深いものを、ファンタジー作者は見えるようにしてくれる。
でも、それは誰でもができるものではないというのです。

『たのしい川べ』(ケネス・グレアム作/石井桃子訳)のネズミとモグラがパンの神に出会う場面をひいて、瀬田先生はこう言います。

新鮮な想像力と驚異の念とがなければ、空想物語の世界も始まらないし、その世界をひらくこともできない。それは大人には特別な能力であるが、子どもには(本来的に子どもである場合に)なんら特別な能力ではない。

そして、「経験生活をはるかに超えて、普遍の真実をひらいてみせる主人公たち」として、次のような作品を例に挙げています。

『ホビットの冒険』トールキン
『灰色の小人たちと川の冒険』B・B
『ムルガーのはるかな旅』デ・ラ・メア
『ミス・ヒッコリーと森のなかまたち』ベイリー
『クマのプーさん』A・A・ミルン
『風にのってきたメアリー・ポピンズ』トラヴァース
『床下の小人たち』ノートン
『ドリトル先生』ロフティング

さて、そんな空想物語は、子どもにとって、人間にとって必要なものだと、論が展開されます。

サン・テグジュペリの『星の王子さま』のなかのキツネの言葉を引用しています。

「秘密を教えてあげるよ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは目には見えないんだよ」

また、エーリッヒ・ケストナーの言葉を引いて、
子どもの知性は学校で伸ばせるし、子どもの体はスポーツで鍛えることができるけれど、子どもの第3の力「想像力」は、ほったらかしだ。だから、大人は想像力を涸らしてしまい人間社会におそろしい欠陥が生じたといいます。そして、想像力は子どもたちはみな持っているのに、大人で想像力を持っているのは、芸術家と発明家と庭師だけだと、ケストナーは言います。

ファンタジーは、子どもの想像力を養う上で不可欠だというのが、瀬田先生の考えです。
そして、想像力によって、人は、他人の意見をよく聞く寛容性を持つ。他者を生き生きと全面的に受け入れる。人間的な共感を抱く。

そう考えると、非常識でナンセンスに見える空想の世界に遊び、真実をつかむことのできる人間たちの作った現実は、きっと平和で愉快なものなのだと思えます。
そしてそれは、子どもの時にこそ養われなければならないのです。

みなさん、子どもと一緒にファンタジーを楽しみましょう!

トールキン先生のおもかげ👴ーバークシャー地方の小村にしのぶ

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論上』の報告。
子どもに本を手わたすことのしょうはおしまい。今日からは新しい章にはいります。

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第2章ファンタジー
2-1空想物語が必要なこと
その1トールキン先生の俤ーバークシャー地方の小村にしのぶ 1975年発表

ヤンは、子どもの時から、児童文学の中でもとくにファンタジーが好きでした。
そして、ファンタジーのなかでもぴか一はトールキンの指輪物語だと思っていました。
だから、最初にトールキンについて書かれていたので、嬉しくって!

瀬田貞二さんが指輪物語を翻訳しておられたときに、トールキンはなくなったそうです。
そして、生前に会うことはなかった。
そののち、イギリスに旅した時にコッツウォルズの小さな村の古い旅籠に泊まったんだって。エルフに会いたいと思って。
3泊してあたりを歩き回った。

いたるところに草地が広がり、羊などが放牧されている。

想像するだに、のんびりゆったりするね。
でね、もう日がくれてきたとき、

ある谷あいに「水車亭」という名代のレストランがあって、灯影が見え、扉を押してはいると、バーには人が群れていて、暖炉には太い薪が燃えていた。このとき私は、エルフにこそ出あわなかったが、トールキン先生の俤に出あった。『指輪物語』の出端(ではな)、旅立ちの情景に嵌(はま)っていることをさとった。

う~~~ん。ファンタジー♫

文学教育の考え方ー子どもと文学と教師と👩‍🏫

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論 上』を読んでの報告

第1章 子どもに本を手わたすこと
その7 文学教育の考え方ー子どもと文学と教師と 1960年発表

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子どもと文学の関係には、大人がかかわっています。
作品を書くのは大人だし、出版するのも大人だし、選ぶのも大人だし、指導するのも大人。
だから、大人の社会環境が大きく影響する。
よい作家がよい作品を書いて、よい出版社がよい本を出して、よい図書館員がよい本を選び、よい教師や親がよく読んでやりよく読ませること、が必要です。
だから、大人が文学についての考えをしっかり持っていないといけないし、間違っても変に介入して妨害してはいけないのですね。

で、ここでは、学校教育の中での文学教育について書いてあります。
大人のかかわり、という点では、まず「学習指導要領」
国語では、読む・書く・聞く・話す技術の指導がほとんどで文学教育は隅に追いやられていると、瀬田先生は言います。
これ、60年前のことよ。
この傾向は、いま、どんどん進んでいますよね。

文学は子どもの心の発達に大きな意味を持つ。
だから、学校での文学教育は必要。
と、瀬田先生は言います。

ただし、文学作品を教材としてあつかうときの扱い方にも問題があると。
文学教育は、道徳でも社会教育でもないし、教師が固まった理論を押し付けるのは、大きな間違いで、学校教育の欠陥だ、と瀬田先生は言います。

じゃあ、何を教えるのか。
何が文学教育の目的なのか。
「想像力を伸ばすこと」なのです。
それこそが、文学教育のただ一つの目的。

そのためには、子どもの成長過程をよく見て、ちょうどあった作品を扱うこと。

それって、先生がよっぽどたくさん読んでいないとできないですよね。

さらに、その作品をどう扱うかだけどね、感動的な引用。

文学にある固有の力をまず文句ぬきでだまって渡してやること。・・・文学の感銘をそれぞれのものにしてやり、性急な追撃をかけて摘みとることなしに育つのを見守るのがほんとうであろう。

教科書の文学作品を分解してこねくり回さない方法、子どもが想像力の羽を伸ばして作品世界から自分で何かをつかみ取る方法を、先生は実践してほしいと、心から思いました。

家庭文庫🏡

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論 上』の報告の続き。

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第1章子どもに本を手わたすこと
その6 家庭文庫 1959年発表

みなさん、家庭文庫ってご存じですか?
ヤンも最初にお話を語ったのは文庫でした。
私の場合は、家庭、じゃなくて地域文庫。
上の子が3歳。そのころ、我が街には子どもがうじゃうじゃいてね(笑)
水曜日は、親も子も公民館に集まって、本を読んだり借りたりしてたの。遠足なんかもしてね。
30~40代の若いお母さんたちで運営していて、活気があって面白かった。
いまは、運営はおばあちゃん世代が中心かな。

で、本題(笑)

そのころ(えっと、今から60年ほど前ね)、アメリカの児童図書館員は、図書館の他の部門の館員より特別に尊敬されていて能力もあったんだって。
それを瀬田先生はうらやましく思って、次のように書いています。

よい児童図書館が(日本の)津々浦々にできて、アザール(昨日のブログ見てね)のいうように、文学賞の権威をうらづけ、新進作家をひっぱり、出版と教育へ努力し、講座をひらき、諸国と交流し、貸出本を大はばに移動させ、くまなく浸透していく・・・そういう日を、私はなによりも切に待ちのぞみます。

けれどもそれをただ待っているのではなくて、新しい着実な動きに注目します。
家庭文庫の登場です。

家庭を開放したり、公民館などを利用して、子どもと本をつなぐ活動です。
そんな文庫活動をしている人たちが連携して勉強会を始めました。
村岡花子さんの道雄文庫、土屋滋子さんの土屋文庫、石井桃子さんのかつら文庫、など。

瀬田先生の文章引用
小さな流れではありますが、運河化して、まずおのれの周辺の砂漠を沃地にしようという各家庭文庫に、心から敬意を表します。

でね、日本全国にこの流れが広がったの。
それには、『子どもの図書館』(石井桃子著/岩波書店)の力が大きかった。

ちなみに、土屋文庫(2か所)とかつら文庫、少し後の松岡享子さんの松の実文庫の四つが母体になってできた私立図書館が、東京子ども図書館です。

それにしても、60年前の、津々浦々に良い児童図書館をという願いは、いつかかなうのでしょうか。そのためには、私たちも同じ思いを持たないといけないと思います。

はい、今日はここまで~

アメリカの児童図書館運動の原動力🙋‍♀️

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論 上』の報告つづき。

第1章子どもに本を手わたすこと
その5アメリカの児童図書館運動の原動力

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児童図書館が生まれたのはアメリカなんだって。

上の写真は、フランスの文学研究者ポール・アザールの『本・子ども・大人』
(1957年/矢崎源九郎訳/紀伊国屋書店刊・原著は1932年)
児童文学の基本図書として読まれた方も多いと思います。
アザールは言います。

時流が激しい狂いを見せて流れるなかでしっかりと子どもを守るもの、魂と精神をきたえる憩いの場所、人種と貧富とを問わない自由な楽しみの一画、学びくつろぎ楽しみにいく本の家。

それがアメリカに誕生した児童図書館だといいます。
そんな昔から、そんな夢のような場所がアメリカにはあったんですね。

図書館は、きのう書いた三つの活動に心血を注ぎます。
そして、アメリカ国内に素晴らしい児童図書館が次々と生まれるのです。
生まれるには、生み出そうとする力のある図書館員が必要です。

小さな家庭文庫のようなものを始めたビンガムさんが、最初です。
キャロライン・ヒューインズさんは、全国の図書館員にアンケートを取ります。
「子どもたちを本好きにさせるためにどんなことをしていますか?」
その回答は、「何も」。つまりゼロだったのです。
そこから、児童書のリスト作りを始め、児童図書館の設立に向けて動いていったのです。
そのあと、アン・キャロルムーア
彼女は子どもの読書に一生を捧げました。
そして、フランシス・ジェンキンズ・オルコット
児童図書館員の養成学校があちこちで開かれ、優秀な専門員が、アメリカだけでなく外国へも派遣されていきました。

それらの、子どもの読書を支える図書館は、みな公立です。
税金によって、誰でもがその恩恵に浴することができるのです。
なけなしの小遣いで高額の受講料と交通費を払って、それでも十分に学べない、だから専門家にはなれない、素人のボランティアが、今の日本にどれだけ多くいる事でしょう。
子どもの読書環境が保証されてさえいたらと思わずにはいられません。

あああ、またフラストレーション(笑)

最後に、瀬田先生の言葉を引用します。

館員が積極的に自然に子どもに本を読ませ、本好きにさせていく実際的な技術のなかで、お話をすること(story-telling)がいかに大きいか。・・・出版社へよい出版をアピールすること、児童文学賞選定に全き実権を持っていること、指導や文学史の研究をおおやけにしていくことなど、私たちの瞠目するばかりである。