マックス・リュティ『昔話の本質』
第2章 眠る七人の聖者ー聖者伝―伝説―昔話 報告つづき
グリム童話の巻末に、「子どものための聖者伝」があるのをご存じですか?
グリム童話は、昔話が「かえるの王さま」から「黄金の鍵」まで200話あって、そのあとに、子どものための聖者伝が10話おかれています。
そのなかに、「十二使徒」という話があります。
これまで読んできた聖者伝「眠る七人の聖者」「ジークブルクの修道院長エルフォ」や伝説「三百八年眠った僧院長」と同じく、長い眠りと、眠りからの復活という奇跡が物語られています。
きょうは、グリムの「十二使徒」が、本来の聖者伝や伝説とどう違うかを考えます。
先に答えを言いますと、づリムの「十二使徒」は昔話であって、聖者伝や伝説とは奇跡の扱い方が異なるということです。
では、具体的に見ていきましょう。
まず、「十二使徒」を読んでください。
『完訳グリム童話Ⅱ』小澤俊夫訳/ぎょうせい
PDFはこちら⇒十二使徒
写真のほうが見やすいかたはこちらをどうぞ。
グリムはこれを聖者伝だとしていますが、冒頭から、場所、人物を不特定に語り、細かな描写を排してストーリーを速いテンポで進めています。また、全てのものが金と銀と水晶でできているというように、昔話の好む固い物、極端なものが登場します。
そして、時代は救世主誕生の300年前と限定しているように見えますが、300という数は、いばら姫の100年と同じく、端数のない丸い数字です。聖者伝や伝説が、細かい端数によって事実であると信じさせようとしているのとは、趣が異なっていますね。
つまりグリム「十二使徒」は、復活という奇跡がテーマではあるけれど、語り口は昔話です。
昔話になったとたん、奇跡は、伝説のように不気味でも不思議でもなくなり、聖者伝にみられるような輝かしい信仰は問題にされなくなります。
事物、人物、事件など、あらゆるものが純化作用によって中身を抜かれて軽くなり、伝説や聖者伝の重さがありません。
リュティ氏は、昔話の語り口について、とっても興味深いことを説明しています。
これって、《昔話の語法》にもあるんだけど、もう一度考え直すチャンスです。
いきます!
昔話の無時間性
昔話は、時を無視することによって、時に打ち勝つ。
時を無視する?たとえば?
@昔話には若者も老人も出てくるが、老化現象は描かれない。
@魔法の品は、課題を果たすために必要なときに役割を務めるだけで、けっして相続されない。
@魔女が主人公の目をえぐりだしても、数年後にはめ込まれる。目は腐っていない。
@昔話が金銀ガラスなど金属や鉱物を好むのは時の経過によって変化しないものだから。
昔話というものは、うつろわない世界を描くものである。
昔話の奇跡
昔話の主人公は奇跡や魔法に驚かない。まるで分り切った事のように受け入れる。
例えば、森の獣は主人公を怖がらせることはあるけれども、獣が口をきいたとたん、主人公はこわくなくなる。
彼岸の人物は、ストーリーの中で敵か味方かのどちらかとして登場する。その存在自体が恐怖であったり(伝説)歓喜を起こしたり(聖者伝)するのではない。
不思議なことは、いのちを養う空気のようなものとなってストーリーにいきわたっているから、わざわざ取り上げられることはないというのです。
もし、わたしたちが、昔話(再話本・再話絵本)を読んでいて、時間の経過が描かれていたり、奇跡に驚いたりしていたら、それは偽物です。
まとめ
聖者伝は奇跡を讃え、伝説は奇跡を恐れ、昔話は奇跡を奇跡と思わない(*^▽^*)
はい、おしまい。