マックス・リュティ『昔話の本質』報告
第4章地の雌牛ー昔話の象徴的表現 その1
この章、最初からちょっとびっくりです。
当然のことかも知れないんだけど、昔話にはいろんな語り方があって、それぞれ魅力があるって、リュティさんはおっしゃるのです。
例えば。
話に尾ひれをつける人。
簡潔に力強く語る人。
語るたびに話を変える人。
語るたびに全く同じ言葉で語る人。
母親のような優しい口調の人。
聞き手の心を奪う神秘的な口調の人。
本と子どもをつなぐ図書館の活動としてのおはなしにどっぷり漬かっていると、これって、信じられない。というか、わたしたちって、画一的すぎるんじゃないかと思ってしまいます。
特に、尾ひれをつけたり、たんびに話を変えたりするのは、許されない。
でも、口伝えの語りの現場では、いろんな語り手がいるのが当たり前なんでしょう。
わたし自身は、そのような語り手としての資質はないので、尾ひれつけたり変えたりはできませんが。
さて、そんな多種多様な口伝えの世界でも、表面下には共通の文体があると言います。
昨日までの報告で触れた、ストーリー尊重、明白さ、確実性、という特徴です。
今日からの章では、それに加えて、昔話の象徴的表現を考えようというものです。
具体例として取り上げている話は、「地の雌牛」
この話における動物の意味を考えるところから、象徴表現を考えます。
「地の雌牛」は、16世紀にドイツとフランスの境界アルザス地方で記録された昔話だそうです。
ATU511「1つ眼、2つ眼、3つ眼」の類話。
ところがねえ、この話も、竜殺しと同じで原典が見つからない。
だから、リュティさんの引用は写真でゆるしてね。
グリム童話「一つ目二つ目三つ目」とか、ロシアの「ハヴローシェチカ」(こちら⇒)が類話なので全体をみてください。
この冒頭だけで、この世の全てありとあらゆる事物が登場します。
「いばらひめ」の時と同じですね(こちら⇒)
生と死、善意と悪意、誘惑と陰謀、無力と不意打ち、絶望、助言と助力、家、自然(森・動物)
わずかな範囲で人間存在の要素をこれだけたくさん取り上げようとするなら、ひとつひとつをおおいに単純化するほかありません。
単純化するには、極端化するのがよい。
例えば、貧しい男、年とった女、悪い継母。
嫌悪は、殺意として表現する。などなど。
引用
昔話に残酷な行いがよく出てくるのは、すべてをできる限りはっきりとあざやかに描き出そうとする傾向から来ている。
残酷な描写は昔話の極端性で説明がつくということですね。
昔話の人物は自己の決定によって動くのではない
例えば
母親はマルガレーテの殺害を自分で決めるのではなく、アンネと相談しているうちに決まった。
マルガレーテは、切り抜ける手段を、名付け親の助言にゆだねた。
こうして、人物は、外部からの助言や贈り物、課題などによって動かされて行きます。そうすれば見えやすいのね。心の動きだけでは、見えないもの。
アンネと相談している様子、名付け親と話している様子が見えると、はっきりくっきりする。
そうそう、またしらみとりがありますね(笑)
母親と姉娘の結合、信頼が、行動であらわされている。
あ、しらみとりといえば。
今再話している古事記、オオクニヌシがスサノオの頭のしらみを取る場面がある(*^▽^*)
またじきに公開しますね~
は~い、きょうはここまで。
ううむ、暑い≧ ﹏ ≦
そろそろヤンは夏籠りかなあ(┬┬﹏┬┬)