マックス・リュティ『昔話の本質』報告
第4章 地の雌牛―昔話の象徴的表現 つづき
わたしたちは現実にしばりつけられてくらしている。
コロナ禍のいま、改めてそれを実感する。
昔話に自由と軽快さを感じるとするなら、それは、昔話では、あらゆるものが苦もなく孤立して他から離れ、あらゆるものが苦もなく結びつくからだ。
リュティさんは、かつて昔話が語られていた時代、人びとは、現代の私たち以上に、ふだんの環境にしっかり結び付けられて共同体にはめ込まれて生きていたといいます。
まほうの鏡のようなテレビや映画はなく、まほうのじゅうたんのような飛行機もなく、旅行や新しい出会いが普通でなかった時代。
だから、昔話は、人間は本来、習慣的な結びつきを離れて新たな結びつきを作ることができるのだという予感を、人びとに贈ったというのです。
昔話の主人公にしかできなかったことを、現代文明社会に生きる私たちはできる、ということかな?
でも、心はどうだろうか。
ほんとうに自由だろうか?
さて、地の雌牛ー象徴表現にもどります。
昔話というものは、何かを禁止するのが好きだ。
そうですよね。
今週UPしたイエメンの昔話「ジャルジューフ」(こちら⇒)。
どの部屋を見てもいいけれど、七番目の部屋だけは見てはいけない。
日本の「みるなのくら」。
ほかにどんな例があるかな?みなさんのレパートリーから探してみて。
地の雌牛では、自分のことを人に話してはダメだっていいます。
こういう禁令だけでなく、きびしい条件とか、課題とか、昔話にはよく出て来ますね。
この厳しさによって、昔話の文体は、より簡潔になる。
いっぽう。禁令や課題は、自然が作り出したものではなく、人間の精神が作り出したものです。倫理とか道徳とかといっしょ。
しかも、主人公はかならず禁令を破る。
見たらあかん、っていわれたら見る。
言うたらあかん、っていわれたら言う。
なんで?
引用
禁止は主人公に制限を加え、試練を課する。しかしたとえ禁令を犯しても、主人公は破滅するとは限らない。回り道をし、苦しみと悲しみを通して、より高い目標に到達することができる。
つまりね、禁令は破られるためにある。
人には、努力目標や限界設定があって、失敗しながら、それを乗りこえていく、そうやって生きていけばいいんだよっていうことだと思う。
昔話の多くの課題は主人公に偉大な可能性をひらく。
若い人たちに伝えたいよ~╰(*°▽°*)╯
きょうはここまで。
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午後からおはなしひろば更新します。