マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む
第1章七羽の烏
いつまでつづく七羽の烏(@^0^)
前回は「七羽のからす」の類話群(代表的なのがグリム「12人兄弟」)の、最後の場面、声の出せない妹が、兄さんたちの着物を編み続け、火あぶりにされる場面での、昔話の簡潔な文体について考えました。
きょうは、まず、同じ場面について、とっても昔話らしい性質のことを書きますね。
青字はリュティさんの文章からの引用ね。
救済は最後のぎりぎりの瞬間になってはじめて成し遂げられる。
薪の山に火がつけられた瞬間に白鳥たちが飛んでくる。
その瞬間に、着物が編みあがる。
その瞬間に約束の6年が終わる。
これが、昔話の奇跡なのです。
現実的にはあり得ないことが有無を言わさず当然のこととして起こるのが昔話なのです。なんでやねん!って突っ込んだらあかんのです。
問「なんでやねん!」
答「昔話やからや」
そして、このぎりぎりってのを昔話はとっても好みます。
非常に正確に、大変高い完成度において、成し遂げられます。
いっぽう、最後の片袖だけが出来上がらなかったので、ひとりの兄さんだけは片腕が羽のままだっていう笑えるパターンもあります。ほんま、ぎりぎりですね(笑)
これは、完全性の中の不完全。
昔話は完全であることを好むんだけど、ひとつだけは除外されるっていうのも好きなのです。
知ってる昔話の中に探してごらん。きっとあるから。
えっと、それから、です。
最終、王の悪い母親は、火あぶりにされます。
リュティさんは、こういいます。
悪はわれとわが身を滅ぼし、自分自身の刀で切られる。
ヤンはこれを残酷だとは思いません。
罰の重みは罪の重みに比例します。
そうであってほしいと思います。現実は、そうでないことの方が多いから。
現実の世の中で、私たちは、どれほど、理不尽な事のために悔しい思いをする事でしょう。
せめて、人生を示す昔話のなかでは、悪は悪として罰せられてほしい。
ああ~、きょうも終わらなかった。
次回こそ、ガラス山の鍵をなくした妹が指を切るところ、やりますね。
はい、おしまいヾ(^▽^*)))
悪はわれとわが身を滅ぼし、自分自身の刀で切られる。
ほんとに、昔話の中でそれが行われるということが大事なんですよね。
これが刑罰だったら残酷だけれども、ファンタジーなんだから、実際のことじゃありません。
昔話は、リアルな描写をしないという語法があるから、語法で子どもたちを守っています。
そしてギリギリ感!
ハラハラしますね、おもしろいですね!
昔話ってほんとに面白いと思います。
大人が見るドラマの「半沢直樹」が視聴率を取れるのも、この二つの要素だと思うのですけど、違うかな?(笑)
語法で子どもを守る! 言い得て妙ですね(。・∀・)ノ゙
そうそう半沢直樹とか、水戸黄門とか。
案外いろんなところで昔話が生きてると思うなあ。