ジミーさんが報告してくださったオンラインの昔話の語法勉強会、参加の方から感想をいただいています。
題材が「がちょう番の娘」だったからか、自分の人生にひきつけた感想もありましたよ~
紹介します(。・∀・)ノ゙
Aさん
昨日のオンライン講座もワクワクしました!
グリム兄弟が昔話を集めて再話したということは知っていたのですが、フィーマンおばさんという人物がいて、実際にどのように再話したか、その様子が窺えるお話を聞くことができて、あーほんとにおった人なんやなぁと、グリム兄弟が生き生きと身近に感じられました。
語法の講座を受けるのは今回2回目ですが、昔話とはどのような特徴があるかが、ヤンさんがおっしゃる前に自分の中で、これはあれやなと言葉がちょっと出てくるようになって嬉しいです。
血や涙の役割の話、特に面白かったです。本当にそうですね!ストーリーの展開のために必要があると言うことを理解していれば、現実的に捉えて痛みや苦しみを感じてしまうことはなくなりそうです。これまでも、昔話を現実的に想像してしまって、どう語ったらいいのだろうと考えてしまうことがちょいちょいあったのですが、楽になりました。そのためにも語法をしっかり勉強することが大事ですね。
そして、娘の窮乏と成長の話もよかった〜!人生、困ることなしに成長はないですもんね。
ヤンさんがうまく語れなかった話もとても良かったです。そういう経験をたくさんされてきたんだなと思うと、わたしもいっぱい失敗しようと勇気でます。娘が本来の美しい姿に戻ったという喜びを感じながら語るというお話も感動しました。
もう一つ、質問の中で出た「娘の成長を意識して語った方がいいか」と言うことだったと思いますが、ヤンさんが「演じてしまいがちな人は注意して」とおっしゃったのが、わたしのことだドキッとしました。演じるのではなく思いを載せて語るというのは、わたしにとって課題です。取り組みがいのあるなかなかいい課題だなぁと思います。
Uさんが質問された内容についての、ヤンさんとのやりとりもとても勉強になりました。シンプルだからこそ成長段階に応じて受け取るものが違う、シンプルに語ることで聴く人の心を揺さぶる、という話は心の中で大きくうなずきながらお聴きしました。
もう一つ言いたいです笑
もし、ファラダが素晴らしく何か手助けしてくれるものだったら、たとえ小さな力であっても、自分の力を発見することはなかったのだから、この話の中では、こういう展開でいいのだなと思いました。ヤンさんが、でもこういうことってありますよね、とおっしゃったので、わたしも人生そういうことってあるなと思いました。
Bさん
前にどこかで「がちょう番の娘」の語りを聞いたとき、暗くて大きな門がこわいしファラダファラダと呪文ばかり頭に残るので、あまり好きなお話ではありませんでした。でも語法を丁寧に教えていただいたとたん、すっかり印象が変わりました。
私は素直なキュルトヒェンの大ファンになりました。さりげなく重要な役割をしてくれてありがとうと言いたいです。
最後、がちょう番の娘が王女の衣装を着てお姫さまになるところ一わあっきれい~☆うれしくなりました。
にせの花嫁がさばきをうけて\(^o^)/すーっとしました。
やはり昔話はよくできていることがよくわかりました。ありがとうございました。
Cさん
初めて受けましたがとても分かりやすくて、またそれが語りに直結する学びでした。
初めてで質問できずにいましたが、私の疑問は他の方が全てお尋ね下さいました。
特にキュルトヘンの帽子の件
あそこだけ違った雰囲気で、悪戯して困らせてるのはなぜかな?と思ってましたが、そう言う意味があったのかと目から鱗でした!
自分はこんな卑しい身になってがちょう番をしているけれど、本当は王女として生まれた事や、風をも吹かす事のできる力を持っているのだと自覚する大切な場面だったのですね。
まだ覚えてもいませんが、理解が深まりましたし
覚えて子ども達に聞いてもらいたい気持ちが高まりました。
Dさん
この話は大人にこそ大切な事を教えてくれてる、そんな気がしています。
①まずはお姫様への言葉
女王が血を滲ませた小ぎれが繰り返す言葉、馬のファラダもただただ同じ言葉をお姫様に繰り返すのは、大人が手を貸すのではなく、お姫様が自分で自分の高貴さに気付き、成長して取り戻すのをひたすら見守る事が大事だと教えてくれているのではと思います。
ファラダは全てを見て知っているにも関わらず、小ぎれと同じ言葉だけを言い続ける、これこそ母である女王の意図を深く理解した忠実で賢い馬である事がわかります。
女王をあえて「年とった」と表現してるのも、若い母親とは違い、親が何もかも解決する事はできない、我が子が本当に幸せになる為にどうすべきなのかを経験から知っている事を表しているのかも、と思いました。
②王様の観察力、行動力
キュルトヘンと王様との関わり、お姫様と王様との関わりは、語法的には昔話の中の平面性による普遍的な結合の可能性との事でしたが、大人は常に自分よりも若い人や未熟な人に目を向け、聞く耳を持ち、その本質を見極め、可能性を見出す立場であるべきだと言われているように感じました。
最後ににせの花嫁に自分自身への裁きを促すところもいいと思いました。王様も「年とった」と書かれていますね。
③自己への判決
これも語法としては、エピソードの孤立でにせの花嫁が自分のした事を他人事として裁きを下すとの事でしたが、現実にも自分のやっている事の罪深さを自覚していない場合は多いのではと思います。この場合だと腰元にも自分が花嫁に入れ替わってもいいという理由のようなものがあるのだろうと思いますし、その自分勝手な考えを大人だからこそ正当化してしまっている事はよくある事でしょう。わかっていてやっているよりも罪深いと言う意見もあります。自分の罪に対して客観的に考える事、どう償うかという事。
大人にこういった事が求められているのならば、大人への道はまだまだです。ただただ「年とった」にならないようにしなければ…。原語での「年とった」の言葉はどんな言葉だったのかな、ただ年齢を重ねたという意味なのか、成熟のような意味合いだったのか、なども考えてしまいました。フィーマンおばさんはどう解釈してどんな風に語られたのでしょうね。
なんだか深すぎて、重いテーマでもあり、3日ほど色々と考えさせられましたが、結論としては「すごいなぁ昔話って!」でした。
最近、日常語にハマってしまってずっと日本のお話に取り組んできたのですが、次は語法が散りばめられたグリムのお話も候補にしたいなと思っています。
いつもは、感想は、宿題だったんですが、今回は、暑さに負けてボ~っとしていた講師が、宿題を出し忘れてたんです(★ ω ★)
それでも感想をお寄せくださったみな様、ありがとうございました~
おっと、録画うまくいきましたよ。
ヤン以外はだれの顔も映っていないのに、質問コーナーでは、ちゃんとみなさんの声が録音されててよかったです。
来年4月ごろ、オンデマンドクラブを作るので、見てくださいね~
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きょうは、ひさしぶりに昔話雑学を更新しましたよ~
昔話を、ちゃんと未来に手渡すために、語り手の責任って、重いんだなあと思いました。