ぽんです。
1/30に小澤先生の「昔話の音楽的性質」の講演を聴いてきました。
もう、結構前のことになってしまいました。
もっと前から書こう書こうと思っていたのに、なかなか書けませんでした。
なぜか・・・。
難しい。何をどう書いたらいいのか。
音楽も昔話も中途半端な、私。
思うことは沢山あるんですが、上手く説明できない。
もう、具体的に個別の事象については書けなくなりつつあるんですが、
全体の印象として、思ったことを書きたいと思います。
講演全体をざっくりいうと、「昔話と音楽には共通性がある」と
小澤先生がおっしゃっていたと思います。
私も、ずっとそう思っていました。
勿論今でも思っています。
ところが、先生のお話を聞いていると、疑問がわいてきました。
先生のいう「昔話」は、テキストという意味での「昔話」と
語りという意味での「昔話」の両方を指しておられるように思いました。
ところが、先生のいう「音楽」は、テキストという意味での「音楽」、
つまり「楽譜」とか「作曲された曲そのもの」という意味での「音楽」しか指していないように思われたのです。
もし「昔話」を「テキスト」と言う意味での昔話と「語り」の両方から考えるのなら
「音楽」も、「テキスト」としての作られた楽曲(楽譜)と
演奏家による「演奏」の両方を考えないといけないのではと思ったのです。
「音楽」は、メロディーとハーモニーとリズムで構成される。
昔話にはハーモニーは存在しない。
しかし、メロディーとリズムは存在する。
メロディーは話の筋(ストーリー)であり、リズムは昔話の中にある。
特にリズムは優れた語り手の語りを聞けば、一目瞭然である。
と、講演の冒頭で言われました。
ここで言われている「メロディー」「ハーモニー」「リズム」はすべて、
音楽の場合、楽譜上に表されています。
しかし、「リズム」は語りを聞けば・・・と、突然「語り」が出てきました。
この、耳から聞く語り手の「語り」を論点に入れるなら、当然演奏家の「演奏」も論点に入れて
比較していかなければならないのではないかと思ったのです。
「昔話はむしろ絵画的要素が強いと言われていた」と先生はおっしゃいました。
「しかし、実は、昔話には、音楽的要素も多く含まれている」
これが、先生の考えですよね。
私も、そのことについては、全くその通りだと思っています。
でも、先生はリズムは語りの中に・・・とおっしゃっていましたが、
テキストを目で見ても、そのリズムを感じられる箇所があります。
たとえば、『イギリスとアイルランドの昔話』の中の「三匹の子ブタ」。
「いやだよ、いやだよ、そんなこと。とん、とん、とんでもないよ」などは、
テキスト上ですでに、リズムを感じられます。
また、石井桃子さんには石井桃子さんのリズムがあり、
瀬田貞二さんには瀬田貞二さん独特のリズムがありますよね。
それとは別に、小澤先生が講演でおっしゃっていた鈴木サツさん。
語り自身にリズムがあり、聞き手が言葉を発して欲しいその瞬間に言葉を発せられていますよね。
(これも、先生が講演でおっしゃっていました)
そして、「バーフォーム」
これは、昔話においてはテキストの中に
音楽においては楽譜の中に、あります。
でも、このバーフォームすらも、
それを、無意識に語りの中に取り入れているから、聞き手にはそれが伝わってくる。
音楽も同じ。
演奏家が、このバーフォームをきちんと理解し、そう演奏することで、聞き手にそれが伝わってくる。
すばらしい語りとして。すばらしい音楽として。
昔話においての「テキストとしてのお話」と「語り」
音楽においての「テキストとしての楽譜(曲)」と「演奏」
この二つは絶対に切っても切れないもの。
昔話において語りは欠かせないものであり、
それは音楽においても同じ。演奏はかかせないもの。
あるプロの演奏家の方がおっしゃっていました。
「楽譜は記号です。どう演奏するか。それによって音楽となります」
暴論かもしれませんが、昔話もこれと同じだと思うんです。
「テキストは記号。どう語るか。それによって昔話になる」と。
なので、先生の講演の中で、この演奏という考えも合わせて、話して頂きたかったと思ったのです。
昔話にテキストと語りを取り入れて説明されるなら、
音楽にも、ぜひ演奏を取り入れて説明して頂きたかった。
こうして、ぐるぐる考え続けています。
書いてる人もわからん、読んでる人もわからん。
に、なりつつありますね。
すみません。