5月29日の投稿「おはなしの勉強会」にコメントとして書いたこと。
かぶさんのみつばちの女王、あんなふうに聴けるのは子どもだけって。
埋没してしまいそうなので(笑)、改めて書きます。
みなさん、昔話を読んで、おもしろいですか?
昔話といっても再話者によって、かなり粉飾してあるのもあるし、いちがいには答えられないかもしれないですが。
本来昔話は、ストーリーだけで進んでいきます。
登場人物の心理描写だって、「よろこんだ」とか「なきました」とか「はらをたてました」としか言わないし。
どんなふうによろこんだかとか、その深層にある心理は、表現しない。
わたしは、文学少女だったので、高学年くらいになると「昔話ってみんなおなじでつまらない」って思っていました。
それまでは、岩波の愛蔵版そろってたから、幼いころはずいぶん楽しんだんですけどね。
思春期に入って創作物に移っていって、学生の頃は文学史の教科書に載っている本ぜんぶ読んでやろうと思って、つぎつぎ読破しました。田山花袋の『蒲団』とか普通よまへんやろっていうようなのも。もう忘れてるのもたくさんあるけど(笑)
そして、おとなになっておはなしを始めて、おはなしのろうそくとか、手あたり次第語るようになって、子どもは創作より昔話を好むことを発見。
いっぽう、大人向けのおはなし会で、ファージョンなんかの創作とか、木下順二や松谷みよ子の再話昔話を聴くと、ほうこんな話があるのかって、おもしろいって思えるのね。それでも、聴くより、その出典を見つけて自分で読むほうが、わたしはずっとおもしろかった。今になって思えば、書き込まれている文章のほうが受け身で楽しめたというだけのことです。
あのストーリーのみの昔話をほんとうに聴くには、子どものダイナミックな想像力が必要です。
それと、事柄だけから心を動かすことのできる感受性が。
レゴの人形をおもちゃのお城のベッドに寝かせ、端切れをかけて、「パパ、ねんね」って、心をこめてなでる。
つぎの瞬間、そのパパで、おもちゃのピアノをガンガンたたく。あ、いや、鳴らす。
そんな想像力と感受性。わたしは持っていない。きっとあなたにも、ない。
みつばちの女王をあんなふうに聴けるのは、子どものすばらしい想像力と感性があるから。
そのことを、語り手は肝に銘じなければならない。
そのことをちゃんとわかっている再話者のテキストを選んで、子どもから教わりながら、語らなければならない。
上から目線でなく、同じ目線でもなく、下から目線っていうのかな?
(「ねばならない」ってことばは普段使わないようにしてるんだけど、あえていいます)
おとなが、もっと子どもから学んだら、世の中、もっとよくなるはずやと思う。
「子どもから教わりながら語らなければならない」
重い言葉です。でも、何より大事なことですよね。
私が10数年前ヤンさんに出会ったころ、(今もずっと!)
「子どもにとっては・・・」
「子どもならどう感じるか・・」
「子どものために・・・」
「子どもに負担をかけさせてはいけません」
・・・というようにヤンさんが何につけても「子ども」中心に考えておられるのが分かり、
そうよね!!!そうですよね!!!!それが聞きたかった!と、
とてもとてもうれしかったんです。当たり前のことなんですが、、、
ヤンさんにキチンとした「ことば」で、キチンと教えてもらって、霧がパァーーーっと晴れました。
「子どもになって聞く」ということは「本質を見抜く」ということですよね?
あ~~・・「ピタリと言い当てる」言葉が見つからない
みつばちの女王、飛んできてほしい・・・
かぶさん ありがとう。
大人同士の楽しみで語るなら、好きなようにやればいいと思うのですけどね。
教育現場で子どもの前に立つのなら、たとえボランティアといえども、子どもに対して責任がある。
もし点字ボランティアだったら、自分の好きな本を好きなように打てばいいかといったら、それは言語道断。利用者にとって役に立たないボランティアはお払い箱ですよね。
むかし、ボランティアの基礎を学んでいたときに、心して聞けと言われた言葉、「ボランティアはお金をもらわない、だからこそ仕事以上に責任を持て」
わたしは、たんに子ども好きとか、子ども至上主義でいってるのではないのですよ。
子ども相手にやるいいじょうは、子どもを理解して、子どもの役に立たなあかん。
子どもの言葉の力をつける。わたしはそのためにやってるの。
「子どもになって聞く」って、どう表現したらいのかな。
さあ、おはなしおばさんたち、自分の言葉を見つけてください。
答えは自分の中にある。