マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む
第1章七羽の烏 つづき
呪いはとっても軽くかかってしまう。
じゃあ、解くときはどうか?
一旦害が生じると、そう簡単には解けません。
しかも、解くのは、呪いを掛けた父親本人ではなく、妹です。
妹の愛が、呪われた兄さんたちを救う。
兄さんたちのところへ行くには、遠く骨の折れる道です。世界のはてまで行かなくてはなりません。
わずかなパンと水と椅子だけ持って。
恐ろしい太陽と月との出会いがあるけれど、星は贈り物をくれます。
太陽、月、星、どれも彼岸者ですね。
ようやくガラスの山に着き、妹は自分の指を切り落とすという最後の難関を突破します。
このような大変な過程を経て、呪いが解かれるのです。
しかも、解けるときは、あっさりと簡単に一瞬で解けます。
「ここに妹が来ているのならいいのだが」というからすの願いを聞いて、妹はさっとその場に出ていく。すると、七羽のからすはみんな人間に戻る。
あっけないくらいです。
冒頭で父親の呪いの言葉がいともやすやすと実現したのと、ちゃんと対応しています。対になっている。これこそが昔話の表現方法なのです。
ところで、ガラスの山の中で、妹がカラスたちのお皿や盃から食べたり飲んだりするモティーフがあります。
現実的に考えると、妹は長旅の後でおなかがすいていたということになるんだろうけれど、象徴的に考えると、救うものと救われるもの、生きているものと彼岸にいるものとの間に連帯を打ち立てる愛の食事ともとれると、リュティさんは、言います。
前回、実際の生活でも、親の軽率な言葉や態度が子どもに害を及ぼすことがあるというリュティさんの言葉を引用しました。
身につまされる方も多いと思います。
わたしもその一人です。
ここで気が付くのは、子どもに掛けた呪いを解くのは、あなた(親)ではないということです。親には解けないのです。
だれが解いていますか?・・・妹ですね。
親より聡明で勇気のある妹です。
呪われた子どもを親以上に愛する誰かが主人公となって人生をかけてくれてはじめて、呪いは解けるのです。
思うんだけど、親はできるだけ自覚して呪わないようにしなくっちゃ。
でも、愚かだから、呪っちゃうんですね。
そしたら、わたし呪ってしまったって気が付かないといけません。
これ、親の苦しみね。
あとは見守ることしかできない。退場です。
そして、彼、彼女を愛する人が現れて呪いを解いてくれるのを邪魔しないことです。
これ、子離れですね。
さて、妹の呪いを解くための旅は、他の類話ではどうなっているでしょうか。次回は、より苦労の多い他の妹たちの旅を検討します。