月別アーカイブ: 2020年10月

昔話の解釈ー七羽の烏2👩👩

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第1章七羽の烏

前回から少し日が開いてしまいました。
その間、ふたつの入門講座という心動かされる出来事がありました。プライベートでもかなり厳しい事件が起きたんですが、これも無事落着しました。
おはなし入門講座については、たぬこさんの報告を見てくださいね。
日常語入門講座については、別の日に書きますね。

で、七羽のからすです。

前回から少し日が開いてしまいました。
はいはい、わかってますがな。
いえ、その間にみなさんはグリム童話の「十二人兄弟」と「六羽の白鳥」をちゃんと読みましたか?(*^▽^*)

「七羽の烏」とこの2話とは同じ話型でしたね。つまり類話。
本書の方法としては、類話を比較してその話の本質を見極めようというものでした。
さて、ここで、七人の兄さんがカラスになったような、動物への変身は何を意味しているのかということを考えます。
「十二人兄弟」「六羽の白鳥」はどちらも白鳥への変身ですね。
類話をみると、他にこのようなものがあります。(  )は伝承地です。
のろしか(シュレースヴィヒ・ホルシュタイン)
ぶた(北部ルーマニアの山地ジーベンビュルゲン)
ひつじ(フランス)
白い牡牛(フランス)
おおかみ(ロシア)
わし(ロシア)
こうのとり(ポーランド)
がん(ハンガリー)
つる(ハンガリー)
あひる(ノルウェー)
はと(イタリア)
以上、リュティさんが挙げているだけでも、いろんな動物がいますね。

これらの動物への変身は、死の国へ入ることを意味するのではないかといいます。
そう洞察する根拠は四つです。

1、鳥への変身の話が多いが、鳥というのは、自然民族の信仰では死んだ人間の変化した姿であるとされることが多い。
鳥は、死んだ人間の霊魂なんだって。
「七羽の烏」の類話では、からすに変身が一番多くて、白鳥も結構あるんだって。そして、黒と白は死の色だと(ううむ。日本だけじゃないんだ!)。

2、いくつかの類話では、父親が息子たちの死を願い、息子たちを殺す用意をしている。
「十二人兄弟」では、父王が、次に生まれる子どもが女の子ならば、十二人の息子を殺すと宣言して棺おけを12個作らせてますね。

3、七人の兄さんたちはガラスの山に移されるが、ガラスの山は死者の山である。
もともと古い信仰では、山そのものが死者のすみかとされている場合が多いといいます。そして、山には魔物やこびとが隠れていますが、これは死者の霊と考えられているそうです。
そして、ガラスの山についての民間信仰も多く残っているといいます。切った爪を捨てずにポケットにしまう習慣があって、これは、死後、ガラスの山をよじ登るときに使うためにあるそうです。死者は人間や動物の爪といっしょに埋葬され、それは、死者が死者の国でガラスの山を登ることができるようにということなのだそうです。
おもしろいなあ。日本仏教の六文銭みたいなもんかなあ。三途の川の渡し賃。ヨーロッパではガラスの山を登る爪アイゼン。

4、太陽や月が人間を食べる危険なものになっているのは、死の世界をほのめかしている。
なるほど。
以前、小学校で語ったとき、あとから先生が、なぜ太陽や月が恐ろしい存在なんでしょうねとおっしゃったことがありました。それ以来、ずっと考えてたんだけど、死の世界だとは思いつかなかった。

(わたしは、宗教的な理由かなと思っていました。かつての自然宗教では、太陽も月も神さまだった。自然宗教の神さまは恩恵も与えるけど脅威でもあるという二面性を持つ。キリスト教が広がって自然宗教が消えていく中で、例えば魔女のように、かつては両面性を持っていた神がキリスト教の神に敵対する悪になる。だから、太陽も月も恐ろしいものとして描かれた。では、星は?星は、三博士を馬小屋のイエスのもとに導く聖なるものであった・・・以上、ヤンの愚論)

はい、今日はここまで。
「七羽の烏」とは別に、昔話の鳥について、それから、伝説も含めた伝承の中のガラスの山について、ううう、知りたいなあq(≧▽≦q)

 

 

入門講座が始まりました

こんにちは。今年度からおはなし入門講座を主催する、ききみみずきんです。入門講座第一回のご報告をいたします。

新型コロナウイルスの感染対策で、定員を当初の予定より減らし、六名の受講者を迎えての開講。なんと全員が小さなお子さんのおられる現役お母さんということで、保育コーナーも大賑わいの中スタートしました。

第一回のテーマは「おはなしってなあに?」

最初に村上さんの語りで「七羽のカラス」を聴きました。絵本も紙芝居も「お話」ですが、これから勉強する「ストーリーテリング」「語り」はそれらと何がちがうのか、ホフマン作の絵本『七わのからす』を参照して確かめました。

耳で聴いて想像したお話と、絵本との違いは?皆さんそれぞれが思い描いたカラスや女の子の姿、ガラスの山が違っていることがわかりました。それは正解不正解ではなく、おはなしを聴いてひとりひとりが想像したものこそが本当の姿なのだ、と村上さん。絵本には絵本でしか表現できないものがありますが、これこそが耳で聴くおはなしの醍醐味ですね。

まだ集中して聴くことの難しい幼い子には絵本を見せることが多くなりますが、子どもはみんな物語が好きです。聴くことでそれぞれの独自の世界が作れるおはなしは、想像力を育てるのですね。

二つ目のお話として、幼稚園で語られる「世界でいちばんきれいな声」。子ガモは出会う生き物の声に憧れて、同じように鳴こうとしますがなかなかうまくいきません。「いえるでしょうか?」の語りかけと子どもたちの「いえへーん」というやりとりが楽しいおはなしですが、おはなしが絵本などと決定的に違うのが、語り手と聴き手がいて初めて成立するという点です。

おはなしが聴き手と語り手それぞれに及ぼす力についてこう話されました。

聴き手である子どもは主人公になりきってその物語を体験します。「七羽のカラス」で少女が自分の指を切り落とすとき、はっとして指を引っ込める子がいるように、おはなしの中での体験によって主人公と共に心が動き、現実では体験できないことを体験できるのです。そして、七人の兄を救出したり、お母さんガモと同じに鳴けたとき、少女や子ガモといっしょに自己肯定感が満たされるのでしょう。

一方の語り手ですが、大人である私たちは日常生活に追われていますね。その中でおはなしを語ることは、日常にいながら非日常を体験できるという心の安らぎを得る機会になります。そしてそこには聴き手がいて成立する充実感、つまり子どもと一緒に物語の中へ入っていける幸せがあります。語っているとき、語り手は物語の中で主人公に寄り添って、主人公すなわち聴き手の子どもの幸せな結末に向かっていく―おはなしを語ることは、愛を伝える方法のひとつなのだとすっと胸に落ちました。

今回のテーマについての講義はここまでですが、おはなしのテキスト(宿題です)を紹介する中で、自然に質疑応答になっていきました。

赤ちゃんのお世話をしながら受講していた方からも活発に質問が出て、中には私たちがたびたび直面する、おはなしに出てくる言葉をわかりやすく言い換えたり語りの途中で説明を加える難しさ、しばしば勉強会で指摘される「句読点と間」についての質問もあり、非常に内容の濃い時間となりました。

皆さんお家でお子さんにお話を読んだり語ったりしておられるそうで、その熱意には驚きました。最初に6人の皆さんがご参加くださったことを「心強い」とご挨拶したのですが、本当に頼もしい仲間が加わったな、と感じました。

皆さま、次回からもよろしくお願いいたします!