月別アーカイブ: 2020年3月

キリスト教児童文学のあり方👼

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論上』の報告
つづく~よ、どこまでも~

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第1章ファンタジー
その5 キリスト教児童文学のあり方

日本で最初にキリスト教の立場を児童文学であらわしたのは、『小公子』
1890年、若松賤子が訳しました。名訳だと瀬田先生はおっしゃっています。
若松さんという方ご自身が厳格なクリスチャンだったそうで、作品の精神を深く理解し、しかも、宗教臭さを感じさせないみごとな訳とのことです。
残念ながら、この本は読めていません。図書館が休館やさかい。

そののち、オルコットの『四人の姉妹』(『若草物語』ですね~)
オルコットの作品には、一貫して、ピューリタン精神が流れています。
それを、やはり露骨には表していない。文学として昇華されているわけです。

ここでリリアン・H・スミスの考えをまとめています。引用します。

作者にはかならず訴えたい目的、言いたい心があるべきだが、その目的が生(なま)に表われ、お説教となって中心にすわっては、子どもの興味をひかない。それをかくして、冒険や劇的要素をうち出し、おもしろく楽しく表現されなければならない

この説を完全に実証する傑作が、C・S・ルイスの「ナルニア国物語」のシリーズです。
全部で7冊なんだけど、それぞれの関係は、最後の巻で俯瞰できるように作られています。
それはそれは、面白い冒険が繰り広げられます。
テーマは「善と悪との戦い」です。

リリアン・H・スミスは次のように言っています。

C・S・ルイスは、自分が訴えようとする真剣な問題を子どもによく話してきかせるためには、何よりもまず、子どもがその物語のなかに楽しくておもしろいストーリー(話の展開)を感じなければならないことをよく知っていたのですし、次にそれを作者のわき出るような奔放な空想力にのせて、読者をわれしらずふしぎな国へ運びこむという、新鮮で力強い語り方を心得ていた

瀬田先生は、宮沢賢治も同じだといいます。
賢治も、空想の世界という方法で「ほんとうのこと」を書いているからです。
賢治は熱心な仏教徒でヴェジタリアンでもありました。
けれども、ルイスも賢治も、文学の中に直接に宗教的な問題を取り入れませんでした。

感動的な引用
子どもは自分にまちがいなくわかり、興味を強くひかれ、次々と事件として動いていく対象を、自分の目で見、自分の心で判断したいのです。いささかの教訓や説教がちらついても、そっぽをむいてしまいます。そういうかたくなな自由人の耳をひきつけるのに、空想的な物語ほどふさわしいものがほかにあるでしょうか。

「子どもは、・・・自分の目で見、自分の心で判断したい」
わたしは昔話を子どもに語っているとき、それを強く感じるし、また、昔話という空想物語がその子どもの願望に応えていると感じます。
けれどもそれは、昔話ならどんな再話でもよいというのではなく、よいテキストでなければいけません。だから、よい再話をしたいと思うのです。

子どもとウソ😁

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論上』の報告

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第1章ファンタジー
その4 子どもとウソ 1959年発表

民俗学者柳田国男の『不幸なる芸術』という著作の中に「ウソと子供」という文章があります。それを紹介しながら、瀬田先生の考えが書いてあります。

まず、子どもはウソをつくものなのに、大人は「ウソは泥棒の始まりだ」などどいって戒めるのはだめだといいます。

歴史的にみると、ウソはイツワリ(欺瞞)ではなくて、
1、人びとが集まって楽しむ座興の一つ。
2、敵をやっつけるための力いっぱいのたくらみ。
だったといいます。

1は、例えば曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)
落語なんかもそうでしょうね。
昔は、村に一人は評判のウソツキ爺さんがいたりしたそうです(笑)。それが、亡くなった後も話として残っていった。
人生を明るく面白くするためには、ウソは欠くべからざるものでもあったといいます。

2は、例えば諸葛孔明(しょかつこうめい)や山本勘助(やまもとかんすけ)といった軍師。
実用向きのウソだったんですね。
これも、話として伝えられる。

自分勝手なウソは、「欺(あざむ)く」といいます。
こういうことをするのは悪人。

子どものつくウソは、1や2の下地だと柳田はいい、瀬田先生もそう考えています。

例として、ある子どもがお使いに行って、油揚げを買ったんだけど、帰りにちょっと食べちゃった。家に帰っておかあさんに、ネズミがかじって走って逃げたとウソをついたという話を挙げています。
こうした子どものウソを、事実と違うからと言って責めてはいけない。
そんなとき、おかあさんはどうしたらいいのか。
だまされたふりをするのもいけない。
自然な感情のままに笑うのが一番だそうですよ。

なるほどな引用
事実とちがう、と、いうことは、その点だけで目くじらを立てて子どもに許さないおかあさんがたがいますが、人生のうるおいである諸々の芸術は、おそらく皆事実とちがいながら、真実をめざしているのです。

こどものそんな空想する力を大切に伸ばしてやりたいといいます。
そして、柳田が発見して育てた昔話こそ、いちばん空想の要素が豊かなのです。

子どものウソ、子どもにかかわる大人がもう一度考えてみるべき問題かもしれません。

ゆたかな子どもたち👧👦

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論上』の報告

いつまでやんねん?
気が済むまで(笑)

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第2章ファンタジー
その3ゆたかな子どもたち 1958年発表

「ゆたか」っていっても漠然としてるよね。
それで、瀬田先生は、愛情と、自然への感動と、空想っていう、ひそやかに湧き出てくる性質に限定して、書いています。

でね、創作の童話を2つに分類して、ひとつは現実物語、もう一つを空想物語(ファンタジーのことね)と名付けます。

現実物語は、小説で、そこには児童像(主人公の性格)が描かれている。
たとえば、『ハイジ』(ヨハンナ・スピり)
純真で素直なハイジが、おじいさんやクララおじょうさんと愛情を育んでいきます。美しい大自然の中で。
『小公子』(バーネット)
セドリックも純真で天真爛漫な愛で周りの人々を結び付けていく。
こうした家庭小説の次に来るのが、もっと自由な子どもたちが動き回る家庭小説になっていきます。
『点子ちゃんとアントン』『ふたりのロッテ』(ケストナー)
それらは、主にゆたかな愛情を描いています。

空想物語は、児童性が描かれます。
児童(子ども)とは何かという作者の思想です。
たとえば、『ジャングルブック』(キプリング)
『ピーターパン』(バリー)
ピーターパンは永遠の子どもですよね。
そのあとに出てくるのが、前回に報告した作品群です。
それらは、愛情と自然への感動と、空想のすべてにおいてゆたかな世界を作り出している。
と、瀬田先生は言います。

空想の大切さは、前回に報告したので読み直してみてね。

ためになる引用
空想物語は、きわめて個性的な作家の個性的な発想や念願を、撓(しな)いのある若々しく柔らかい魂に触れさせる絶好の機会である。その読者の一生にわたるよいものへの識別力はそのとき養われる。つまり、ゆたかな可能性をたたえた子どもたちに、それは、ゆたかなものへの眼をひらかせる重大な契機なのである。

それでね、小学生のお母さんお父さん、子どもと一緒にファンタジーを読んでみてはいかがですか。
夜寝る前とかに、声に出してよみ聞かせるの。
素敵なひと時になると思う。

それから、これが書かれた約60年前は、日本にはよいファンタジーがないと、嘆いておられます。
それで、わかったことがある。ヤンは子どもの時、日本の物語は文章がいいけど、外国のはストーリーがわくわくして夢中になれるって思ってたの。だから、外国文学(欧米)が好きだった。

今は、日本でもたくさんファンタジーが書かれてるよね。
わたしが好きなのは、荻原紀子の『空色勾玉』とか、上橋菜穂子~!

マスク騒動🐽

そろそろ家の使い捨てマスクの在庫が切れる。
ヒノキ花粉の飛散は目の前だ
どないしょ。

近所のスーパーもドラッグストアも、すんません入荷未定ですねん。
コンビニの兄ちゃんは、めっちゃ早朝でないと売り切れます。
冷たいなあ、どないすんねん。

しゃあない。作るしかないな。
使い捨て時代にどっぷりつかっていてはいけない。
私は曲がりなりにも使い捨て時代を考える会の幽霊メンバーだ。

家には医療用のガーゼがある。
ちょっと弱いなあ。
それで思い出した、ガーゼのタオル。
子どもが生まれたときにお祝いでもらった!
物持ちええなあ。かしこい!

花柄の二重ガーゼ。

夫「おれ、花の少ないとこな」

二重を更に二重にするか、三重にするかで議論が始まる。

夫「三重にしたら息でけへんのとちやうか」

ふたりで、二重にしたり、三重にしたり、四重にしたりして試験する。

夫「けど、ちょっと大きいで」
私「切るねんけど・・・」

顔全部覆ってどうする?
息でけへんって、目、見えへんやん。

夫「ギャザー入れるんやな?」
私「えっ!」

夫「鼻のとこ、針金やったらケガするで」
私「えっ!」

もう自分で自分の分作ることにしよ!

夫「今日の共同購入で頼んどいたマスク、当たるかもしれんで」

どうか当たりますように~~~!

3月のおはなし会💗

3月18日(水)
学童保育  約20人 1~5年生

おはなし「ヘンゼルとグレーテル」
おはなし「かたつむり」『語りの森昔話集3しんぺいとうざ』
絵本『ココロのヒカリ』谷川俊太郎文/元永定正絵/文研出版
絵本『ピーターのいす』E・ジャック・キーツ作/きじまはじめ訳/偕成社

休校・休館になって以来、久しぶりのお話会でした。
「ヘンゼルとグレーテル」は覚えたてのこともあってちょっと緊張(笑)
16分は長いかと思ったけど、1年生もちゃんと聞いてくれましたよ。
毎月積み上げることの大切さを実感しました。

それにしても、子どもたちとのやり取りで、生き返りました。
今までどれだけ子どもからエネルギーを吸い上げていたか、実感しました(笑)
4月、新しい小さな仲間を迎えてのおはなし会、楽しみ!

先生方も、今までにも増して歓迎してくださったのは、きっとコロナ騒ぎで閉塞感やらストレスがあるからなんでしょうね。
早く日常がもどりますように!