余地    by ジミー

別の日記のコメント欄が長くなりましたので、「聞き手に想像する余地を残す」
について、改めてあげておきます。
皆さんのご意見をお聞かせくださいね。
ヤンさんが「余地を残す」は、大きな問題だと書かれました。
改めて考えてみると、私は余地は残すとか残さないとか、それについて考える必
要はないように思います。
「聞き手に想像させる」ということで、いいんじゃないかなと…。
どうでしょうか?
(○か×を待つ気持ちです)

13 thoughts on “余地    by ジミー

  1. 「余地」っていうと、何となく語り手の想像が先にあって(メイン)
    残りが聞き手の想像(サブ)という風に聞こえるから、
    ヤンさんが問題視してるんじゃないかな
    それは、メインとサブじゃなくて同時、同位置なんだと思う。
    私は語り手の想像と聞き手の想像とが重なりあって、
    その日その場のお話ができるんだと思うけどなぁ。
    だけど、それでも語りの場では、
    やっぱり語り手の主導でお話が進んで行くんだから
    「考える必要はない」とは思わないなぁ。
    語り手の想像と聞き手の想像の良いバランスを保つために考えないと…。
    「考える必要はない」と言われてしまうと
    「やりっぱなしかい」と突っ込みたくなってしまう。
    語り手は、聞き手がどう想像するかについても責任を持たないとあかんと思うなぁ。
    聞き手がどう想像しても全くかまわないとは思わないよ。
    あらゆることを、考えて考えて考えて語る。
    でも、その考えたことを越えて聞き手が要求(反応と言った方がいいかも)してくる。
    その時対応できる力を、語り手として養うために
    ババヤガーで勉強してるんだと思ってるんだけど。
    それが出来ないと結局、語り手の想像(イメージ)を押し付けてしまうことになるんだと思う。
    ちょっと言い過ぎかな?
    つまりは、「必要がない」という言葉に、大きく反応しちゃうのよね。

  2. 押し付ける ごぶジロー
    私は、同じおはなしをたくさんのクラスで語る事が多いのですが、何度も語っているうちに「あ、ここがすごく面白いんだ」とか「ここはみんな緊迫して息もしてない」(ように見える)とか、だんだんとそのおはなしの色んな事がわかってきます。(本当は語る前から理解しておかなくちゃいけないと思いますが…)語る毎に子どもから教えてもらい、どんどんおはなしの理解が深まり、自分のものになっていく感じがします。
    そんな時。へんな慣れとへんな自信が顔をのぞかせ、必ずコケます。
    「ほら、ここ、おもろいとこ!わらうんやろ」って、私のイメージを押し付けた語りになってしまってるんだと思う。そのクラスのノリが悪かったり、ユーモアのセンスが無かったり、子どものせいではありません。私のせいです。
    自分が考えた語り方、自分の間の取り方で、イメージを押し付けている…
    私のイメージを先に押し付けちゃったばっかりに、もっと楽しめたはずなのに、想像の幅を狭めちゃった、と感じた事があります。目の前の聞き手と息を合わせるのを忘れている。
    コケて初めてひとりよがりだったと気づく…ごめんね、子ども達
    何度語っても反省点多いですが、語れば語るほど子どもから教えてもらう事も多く大変勉強になります。
    「想像させる」からちょっと話がずれちゃったかなぁ

  3. 語り手が自分のイメージを押し付けてもあかんし、
    かと言って、自分のイメージ全部に蓋して語ってもあかんし、
    そのバランスが大事なんだと思う。
    やっぱり、その語りの場で、聞き手からの声に耳をすませて
    一緒に作り上げて行くことが大事なんでしょうね。
    それが聞き手と息を合わせるってことだし、
    聞き手の声を聞くってことなんですよね。
    同じお話を何回語っても、一回として同じにはならない。
    一期一会。
    だから、語りをやめられない。

  4. ぽんさま
    ごぶさま
    お二人のコメントを読ませてもらって、それぞれに「なるほどな~」と思います。
    私が「考える必要はない」と書いたのは、聞き手の想像の領域に踏み込んではいけないと思ったからです。
    100%聞き手のイメージは聞き手の自由だから、聞いたとたんに頭の中でイメージがすごい勢いで現れてくる。
    先に、語り手がイメージを決めてしまっていたら、もう勢いがなくなると思うんです。
    語り手は、おはなしを届けるための媒体になって、おはなしのもつメッセージをそのままで届けるのがいいと思ってるんですけど、これって話が外れてますかね?
    私は、おはなしを深く深く読み込めるようになりたい~!

  5. いや、別に先に語り手がイメージを決めてるわけじゃないよ。
    語り手にもイメージがあるから、
    お話の持つメッセージも届くんじゃないの?
    語り手のイメージを封印して語るなんて、
    私には出来ないなぁ。
    イメージを共有しながら語ってる。
    共同作業。
    まっ、でも、それぞれに色んな考え方があるからね。
    そのお話の持つメッセージも前面に出しすぎても
    結局は押し付けがましい語りになるしね。
    さじ加減が難しい。

  6. あらあらあら、ごめんなさい、ヤンです。
    えっとね、「聞き手に想像する余地を残すべきだ」なんて考えたことないのに、いったいいつ口走ってしまったのだろうと、困惑しているのです。だから大問題だっていったのです。ごぶさんの筆が走っただけだったらいいのですが……(笑)
    でも、ごぶさんのおかげで、語りの命であるイメージについて、話し合うきっかけになってよかったです。きっとコメントしてない方々も、いろいろ考えてくださったと思います。
    ただし、責任を感じるので、言ったか言わないかは置いといて、「聞き手に想像する≪余地を残す≫」という考えが的外れだ、と考えるわけだけを書いておきます。
    わたしは、聞き手が一から十(か、九ね!)まできちんと想像できるように、ストーリーを正確に伝えることが語り手の仕事だと思っています。ストーリーをわかりやすく伝えることで、聞き手はよりクリアなイメージを作ることができる。イメージがクリアであればあるほど、聞き手の心がうごき、頭がはたらきます。情と知ね。
    聞き手の想像力がフル活動するように語る、これが私の求める語りです。もちろん、これは理想であって、それに向かって努力しているところ。
    ね、「余地」の入る余地はない(笑)
    ストーリーをいかにわかりやすく伝えるか、というところで、スピードとか間(ま)とか、話の姿とか、テキストを整えるとかの問題が出てくる。「演じる」ということもそのひとつかな。でも、最近、私たちのやっている語り(おはなし)の分野でこの言葉を使うのは語弊があるかもと思い始めています。みんなよく使うけれどね。なぜなら、私たちは演じる芸術としての演劇を知っているでしょ。あれと私たちの語りとは別物でしょう?
    あ、そうそう、「語り手の想像=イメージ」をどう考えるかについては、入門講座を受けた方にはわかっていると思います。≪語るために≫の「どうやって覚えるの?」で復習してください。もうすぐUPします。
    ほな。お騒がせしました~        ヤン

  7. ごぶです。
    ヤンさま、大変わかりやすいです。
    これからもねばり強く精進して参ります。また、的外れな事を口走った(筆走った?)場合は、イエローカードでも教育的指導でもビシバシお願い致します。

  8. ごぶです。
    作った文章がコメント欄に入りきらないので、分けて入れました…いつも長くて申し訳ない…
    ①この所ずっと思考の沼に入り込み脳みそがそろそろウニになってきていますが、先日2年生2クラスのおはなし会に行ったので、思ったこと。
    夏まえからじっくり選び、あたためていた「わらしべ長者」を語りました。毎月行ってるよ~く知ってるとこ。1クラス目。
    …向こうからてんびんぼうで桶をかついだ人が…
    子ども「てんびんぼうって何?」
    私「こういう長~い棒のこっちとこっちに桶とか付けて運ぶやつ」
    子ども「あぁ~!あれね!
    (ほんで、ほんで?)」
    …鍛冶屋に泊めてと頼むと「おれ達は今、死ぬか生きるかの一大事で…」子ども(えっ?なんで?どうしたん?)しぃ~んと緊張。
    …味噌玉を鍛冶屋にあげる。刀もらう。(ここでなぜか「短い刀やって!」と笑っている子がいた。長い立派な刀が欲しかったのかな?)
    …刀がひとりでに抜けて大蛇から若者を守る。(刀、すげ~!)
    …殿様に刀を差し上げる→(あ~ぁ、あげちゃった。どうすんねん)
    …殿様はお礼に千両くれました→(うわ!千両!千両になった!)
    と、最後では顔を見合わせ、(良かったなぁ!)と大満足した様子でした。私も大満足~。

  9. ②そこで。そこでです。2クラス目。
    悪いクセが、出てしまいました。
    最後の最後で(ほらほら、千両やで。初めに言うてた千両やですごいやろ!)って、私の気持ちが大き過ぎて(盛り上がりすぎて)押し付けたみたいになってしまい、1クラス目ほどの驚きと満足感が得られませんでした…
    私の場合、そのおはなしを何度も何度も語る回数を重ね、失敗を重ねながら(子ども達ごめんね…)段々と完成していくというか、満足いく語りになる確率が上がる、というか、そんな感じです。
    語るたびに、振り返り、このおはなしで良かったのか?語り方はどうだったか?リズムが?間が?と反省します…
    子どもが違うから反応が違う、というのはもちろんあります。そんな事は踏まえた上です。上手くいかなかった時のに子どものせいにするのは簡単ですが、それは違うと思うのです。語りの何かが違ってしまったから、最大限おはなしを楽しむ事が出来なかった、と私は考え、反省する事が、ものすごく大事じゃないかと思います。
    満足のいく語りになる確率がブレるというところが、前にジミーさんが言ってた「自分とおはなしとの丁度いい距離感」を私が持てないでいる、という事なのかもしれない、とか何とか、ず~っと考えて夜も眠れない(うそ。寝てる)ごぶです…

  10. ヤンさま
    説明ありがとうございます。
    よく分かりました。
    情と知。
    この言葉、心に留め置きます。
    演じるという言葉、御幣があります。
    何か他のいい言葉がないでしょうかね。
    盛る? 込める? 
    しっくりきません。
    ごぶさま
    書いていらっしゃること、同じ思いです。
    特に②のところ。
    私の場合は、うまくいかなかった時、子どもの目が「興味ない」と言ってる時、まずは話の読み込みが浅いことが原因です。
    ここはゆっくり、ここはさらっと、ここは気持ちを込めて、が、ちぐはぐになってるんだと思います。
    自分とお話との距離(えらそうなことかいて恥ずかしくなってきましたが)は、私が話をよく理解していないから距離が取れないんじゃないかと思っています。
    どうしたら深く読み込めるようになるか、ただただ精進ですから、自分次第。
    そういうことを考えて、ずっと悩んでそのままのような気がします。
    落ち込みそうになりますが、でも落ち込まない。
    ここの皆さんは仲間ですもんね。

  11. 落ち込んだらあきません。おはなしは楽しむためにあるんですからね~
    創作文学なら、一語一語に込められた作者の意図を読み込まないと語れない。逆に言えば、作者によって選ばれた言葉を頼りにして、すべてを読み取ることができます。けれど、昔話は読み込む方法が異なると思います。
    昔話を理解するには、たくさん読むことだと思います。昔話は、たとえばATUによると2400ほどしか話型がないですよね。2400のあらすじを全部読む(ATUの日本語訳がほしいよ~。先生~~!)。あ、それと日本昔話通観のタイプインデックスも。
    そして、例えば「手無し娘」なら、ATU706の類話を集められるだけ集めて、外国のも日本のも読む。そうしたら、このストーリーとそのバリエーション、テーマと民族によるテーマのヴァリエーションがわかる。そして、自分の肌にぴったりの類話を選んで語る。
    あとは子どもが教えてくれますよ~。子どもは神さんに近いですからね。聞き手との共同作業です。「興味ない」という顔から読み取るんですよ。
    なんでこのブログは、コメントまでみな長いんや……        ヤン

  12. コメントが長い
    それはもう、本当に、申し訳ない…
    みなさま、長い長いコメント読んで下さり、すぐにコメント入れてくださり、ありがとうございます。
    本当に勉強になります。
    (これでもいつも下書きを半分位に削って短くしています…きゃーコワッ)
    「昔話を理解する・読み込む方法」
    ヤンさんからの助言や贈り物!
    頂きました~!
    みんなにも教えてあげたいような、隠しておきたいような……
    精進したいと思います。これからもますますよろしくお願いします。
    ごぶ

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