月別アーカイブ: 2017年2月

再話勉強会がありました(^^♪

きのうは、再話勉強会でした。
原話を探してきて、語りのテキストにする勉強なので、普段あまり見ないようなお話も多くて、毎回どんな原話を探してこられるのかも楽しみなところです。きのうのメニューは…

語り
「金峯山寺(きんぷせんじ)の別当」日本古典文学全集『今昔物語集4』小学館
「熊おやじと狐」 『世界の民話37シベリア東部』ぎょうせい
「いり豆こわい」 『新装日本の民話7近畿』ぎょうせい
「お月さんとお日さんとかみなりさん」 『丹後の民話第一集』峰山孔版社
「きつねとたぬきの化かしっこ」『新装日本の民話6東海・北陸』ぎょうせい
「いり豆こわい」 『新装日本の民話7近畿』ぎょうせい
テキスト
「ふぐと鯛」『復刻版昔話研究』第三巻 岩崎美術社
「おおかみと子どもたち」『新装日本の民話7近畿』ぎょうせい
「六地蔵」『新装日本の民話5甲信越』ぎょうせい

語りの中に、「いり豆こわい」が二つあるのは、グループが違うのです。原話は同じですが、グループが違いますので、再話が違います。
勉強会では、お話のテキストをより普遍的なものに完成させていくのを目標にしています。再話したテキストが、だれがみても語れる・使えるテキストにするのであります。でも、「いり豆こわい」の再話は二つが全く同じではありません。でも、同じ話です。創作しているわけではなく、原話に忠実に再話しています。同じ原話でも微妙に違うが、違わない…。説明がへたくそですいませんが、これがわたしの限界です。何が言いたいかというと、大変勉強になり、大変楽しかったということです。

次は、6月です。でも、準備することがあるのできっとあっという間でしょう。実際、少し前に初詣に行ったと思ったら、もう2月過ぎてるし。まわりでは、入試とか卒業式とか…。ああ、光陰矢の如し!
次回にむけて、頑張りましょう(と、自分に言い聞かせるジミーであった、まる)

 

なぜ愚かな末っ子がしあわせになるのか?

大陸からの高気圧のせいで、日本全国、寒いですね。
雪や風の被害が増えています。

さてそのさむいなか、17日は昔話の語法勉強会です。
申し込み、忘れていませんか?
おっと、思い出したというかたは「お問合せ・リンク」へGO~!

さてさて。
お話を聞くとき、子どもは主人公に身を寄せて聞きます。
わたしは子どもだったとき、アンになりきり、ロビンフッドになりきり、クリストファー・ロビンになりきって本の世界に没頭しました。完全に現実を忘れて。
そして、ひとつの大きな冒険を終えて本を閉じたとき、わたしは、魂の高揚とともに、生まれ変わったように感じました。それは至福のときでした。
わたしが読んだのは昔話ではありませんでしたが、子どもの文学は、昔話と同じ主人公中心の文学です。

子どもにおはなしを語っているとき、目の前にいるひとりでも多くの子に、あの貴重な体験をさせてやりたいと、心から願うのです。

なぜ昔話は主人公中心の物語なのか。
主人公中心ということにどんなたいせつな意味があるのか。
いっしょうけんめい考えています。
ヒントは、昔話の孤立性にあると思います。
17日は、そんなことをいっしょに考えることができたらなあと思っています。

参加できないかたも、どうぞ、「昔話の語法」のページ、「孤立性」について読んでくださいね。
あ、参加されるかたも読んで予習しておいてください 💛

みなさま、寒さに負けないよう、がんばりましょう。

2月の日常語講座🐤

こんにちは、もっちです。
2月3日は節分👹でしたね。みなさま恵方巻は召し上がられましたか?
恵方を向いて、恵方巻をまるかぶりする風習は、大阪船場の商人が始めたそうで、関西特有かと思われていましたが、コンビニの普及に伴い、このごろは全国で恵方巻を食べるようになってきているそうな。少なくとも関東の知り合いは「普通に売ってるよ?」と言っておりました。
季節の行事食っていいですよね。季節を感じられるし、夕飯のメニュー決めも楽なところが嬉しいところです。
ところで節分は、季節を分けると書きます。実は年に4回あるのはご存知でしたでしょうか。
それぞれ立春、立夏、立秋、立冬の前日が節分になるのですが、一般的に節分というと立春の前日の節分が有名なようですね。

さて、立春も過ぎ、めっきり春めいたとは言いにくい小雪の舞う日に2月の日常語講座がありました。

語りは、
「洪水」『語りの森HP』【リンクはここから】
「海のはて」『日本の昔話4』(福音館書店)
「かたつむり」『語りの森HP』【リンクはここから】
の3話。
テキストは、
「犬と笛」『子どもと家庭のための奈良の民話一』(奈良の民話を語りつぐ会)
「岩くだきと堂せおいと知恵もん」『日本の昔話5』(福音館書店)
「浦島太郎」『日本の昔話4』(福音館書店)
の3話でした。

毎度話題にのぼる擬態語(オノマトペ)
ついつい擬態語も自分の馴染んでいる日常語にしてしまいがちですが、鬼が、大蛇が人をげろりと飲み込む様子など、普段あまり使わないその擬態語も昔話の面白さの一端のように思います。
そこだけは標準語のテキストもそのまま残している部分なので、原話の擬態語を大事にしているということなのでしょう。
ところで、ヨーロッパ・英語圏には擬声語や擬態語が驚くほど少ないのだそうです。その代わり動詞と形容詞が多いのだとか。
反して日本の擬態語は多く、多様化しているそうです。これも文化なのでしょうか。
そう考えると何が何でも日常語というよりは、その作品から受けた自分のもつイメージを大事にしつつ、お話の持つ雰囲気に合った日常語テキスト作りができたらいいなぁと思いました。

また、語りで補える言葉は、テキスト上の書き言葉を省略できる、というのも話題に上がっていました。
これは、鬼が大きい声で怒って言ったとか、お姫様が囁くように小さな声で言ったとかいう部分のことについて討論していたときに出た話題でした。
その様子を語りで表現できるなら、わざわざ大きな声でとか、囁いてとか言わなくていいよってことだったのですが、これも語り手それぞれ。その表現ができる人、似合わない人、語り手が100人いたら語り口も100通りあるのです。
だから日常語テキストにどれが正解なんてことはなく、やはり日常語テキスト作りの道程は、ひたすら自己を顧みるこれに尽きるようです。
昔話の主人公も、語り手も孤立して悩んで進んでこそ、ハッピーエンドが待っているようですよ。