月別アーカイブ: 2020年4月

ディズニー「わんわん物語」🐕

『瀬田貞二 子どもの本論文集 児童文学論上』報告 つづけます。

********

第3章書評など
≪映画評① ディズニー「わんわん物語」≫1956年

ディズニーの「わんわん物語」って、観たことありますか?
私は、あります。映画館で観ましたよ。
1955年製作なので、リアルタイムじゃないですけど。リバイバル上映でしょうね。幼かったから事情は分からないけど。母と、隣のMちゃん母子と一緒に連れて行ってもらったことを覚えています。
そのころの子どもにとって、それは夢の世界でしたね~

今調べたら、DVDやブルーレイで買えますね。(あ、買わなくていいです。図書館が開いたら探してください)
ディズニー・キッズのサイトではストーリーとキャラクターが見られます。
YouTubeで「わんわん物語」のさわりだけ観てください。

瀬田先生の批評

期待されてたそうですが、「職人芸のこなしのうまさ・・・深々とした感情の調和というものがなくて、べらぼうに腕達者になっている」点では楽しめると言います。
でも、そこまでで、あとは酷評です(笑)

ディズニーにはイデオロギー(思想・観念体系)がない。
ディズニーが「わんわん物語」でねらったテーマは「愛情の偉大さと美しさ」。
けれども、瀬田先生は、アメリカ好みの精神分析学的な心理描写がくどすぎて、モティーフが割れていて、甘いと言います。

イデオロギーがない代わりに、生活感情のソフィスティケーションがある。
ソフィスティケーションっていうのは、都会的な洗練のこと。グラフィックデザインの見事さ、幻想的な踊り、等々。
なるほどね、あの時代の子どもたち(もしかしたら大人も)幻惑されたはずだ。

そして同時にしつこいほどの泥臭いリアリズムもあるんだけれど、そのリアリズムも人間中心である限りにおいて、限界がある。
たとえば、動物の描写はリアルなんだけど、徹底できてなくて、ソフィスティケーションを持ち込んでしまうというのです。

結論
引用
レイディとノラ公とがはじめていっしょにすごすイタリア料理店の、話のすじと技法の上で調和のとれたリアリズムの線で、全体がおされていくほうが、ディズニーふうに、健全だったのではあるまいか。

ぜんぶを見直してみないことには、何とも言いようはありません。
が、ディズニーが、子どもたちに及ぼす影響は、昔も今も変わらないということだけは確かですね。
「わんわん物語」はディズニーのオリジナルですが、原作がある場合の映画をどう考えるか、瀬田先生にお聞きしてみたいです。

非日常

えらいこっちゃ。
生まれて初めての事態に遭遇しているぞ。
ありがたいことに、戦争も経験してないし、大地震もつなみも噴火も洪水も、何とかすり抜けてここまで来たけど。

こいつは難儀や。
眼に見えずひそやかに、音もたてず忍び寄ってきよる。

こわいなあ。
むせただけでも、あれ、コロナ?
お腹の調子が変でも、あれ、コロナ?
鼻がつまって、あれ、コロナ?

あかん、鬱ってる

わが市は、今日、幼稚園、小・中学校の休校が、5月6日まで延長されました。
今日は、通院のため、市の中心部まで行きましたが、人通りも少ない。バスも、人が乗っていない。
ふしぎなことに、病院2か所とも、めっちゃすいてました。
いつも待合室、ぎゅう詰めやのに。
あの患者たちはどこへ行ったのでしょうか。ひょっとして、通院は不要不急なん?

アルコール消毒液、見つけるごとに手を消毒してたので、手がふやけてしまった。

自分がかかっても家族がかかっても大変です。
極力うつらないようにしましょ。
狭いお部屋で肩寄せ合ってお話を聞く、これが一番あかんのですね。
静かにお家にいましょう。
家族でおはなしを語り合いましょう。

これは、非日常です。
静かにお家にいて、ちゃんと手を洗うことが、日常を取り戻す唯一の方法です。
長期戦かもしれないけど、がんばろう!

アーサー・ランサムの物語の特質

『瀬田貞二子どもの本論文集児童文学論上』報告 つづき

***********

第3章書評など
「アーサー・ランサムの物語の特質」1967年発表

アーサー・ランサム(1884-1967)
イギリスの作家、ジャーナリスト

もともとは児童文学とは関係のない高踏的な文学者で、グールモンやゴーチェを訳したり、ポーやワイルドに関する分析をしたり、凝った文章の小説を書いていました。
ところが、そのうち、ヨット航海にのめりこみ、中年を過ぎて、ヨット仲間の子どもたちにお話を語り始めた。それが、『ツバメ号とアマゾン号』です。
そして、つぎつぎに12冊、子どものための小説を書き上げたということです。

瀬田先生の言葉を借りれば、
文学と人生のゆたかな人が、あるとき気軽に(自分自身が楽しんで)、ゆうゆうと(力量を落とさず苦渋せずに)、年若い人々のためにお得意のお話をしてきかせた
ということです。

1936年 第1回カーネギー賞を『ツバメ号の伝書バト』で受けています。

この「ツバメ号とアマゾン号」シリーズについて、瀬田先生は、ご自分の文庫などの子どもたちの言葉を拾いながら評しています。

「ぼくたちそっくりだからすきだ」
ランサムという成熟した作家が、子どもの心になりきって、子どもの感じ方で作品全体を統一していることに、瀬田先生は驚いています。
大人でいて、子どもの視点が自由にとれる作家は、児童文学でもっとも有利な資質の持ち主である

「それは四人の島だった」に傍線
この個所は、事件が起こる予兆の部分。読者である子どもが自分のこととして冒険を経験しているのだといます。
普通の子どもたちが、休暇中に出会う冒険を語っているという意味で、日常生活に冒険を持ち込んだ作家といわれています。「休暇物語の創始者」です。

「地図のない本は、読む気がしない」
実際に地図があるかないかではなく、物語の背景となる土地が、完全にリアリティをもって書かれていることが重要だと言います。
逆に言えば、水も漏らさぬ構成になっていなければ、地図は描けないのです。
ランサムは、自分の掌のように知り尽くした湖水地方や北海を背景に選び、そこに得意とする船を浮かべ、熟知した帆走の知識で物語を展開しています。

「この本には、あらゆることがちゃんと書いてあるわ」
ランサムは、省略しないで、全てを、楽しみながら、抑制のきいた筆で描いていきます。
ランサムの言葉の引用
子どものためではなく、自分の楽しみのために私は書きます。もし幸せにも子どもたちが、その楽しみを楽しみとしてくれれば、それがとりもなおさず、子どもの本の作家となるのです。

最後に、瀬田先生は、ランサム自身の描いた挿絵を、稀有なストーリーテラーの語り口とみごとに調和していると絶賛します。

 

マスク騒動Ⅱ😷

ラインで家族に写真を送った。
自慢まんまんで。
あだになった!
娘家族と息子、8枚作ることに相成った。

ほしい!って、自分で作らんかい!

あ、いや、ここは年寄りの出番だ。

娘一家は東京都心住まいなので、というか、日本一感染者が多い区なので、怖がって、子どもの保育園も休ませて、一か月以上籠城している。
幼児の相手をしながら在宅勤務。
息子も、慣れないテレワーク。
息子「本社の隣の小屋で、ひとりテレワークやねん」
それって、在宅っていうの?ほかに深いわけがあるのとちがうの???

ともかく2日間で大急ぎで作って、送った。
いくぶん縫い目が荒いことには、きっとお気づきにならないでしょう(笑)

送った写真

プーさん頌📚

『瀬田貞二 子どもの本論文集 児童文学論上』報告つづき~

************

第3章書評など
プーさん頌(しょう) 1958年発表

A・A・ミルン(1882-1956)作家

瀬田先生がこの文章を書いた時点での、プーさん(石井桃子訳)の日本における出版
1940年『熊のプーさん』岩波書店
1942年『プー横町にたった家』岩波書店
1950年『熊のプーさん』英宝社
1950年『プー横町』英宝社
1957年『クマのプーさん』岩波少年文庫
1958年『プー横町にたった家』岩波少年文庫
つまり、『プー横町にたった家』が岩波少年文庫で出たときに書かれたのがこの文章なんですね。
ちなみに、添付写真は、岩波書店から1962年にでたハードカバー。

ヤンにとって、プーさんは、『たのしい川べ』と同じく、人生を通じて影響を与えてくれた作品です。読むたびに、みずみずしい子ども時代の感性を呼び戻してくれました。
小学生の頃、「将来どんなつらいことがあっても本さえあったら生きていける」と思わせてくれた2冊です。そして、それは、本当でした。
ハードカバーなのに、ヨレヨレ(笑)

さてさて、瀬田先生の論考ね。

プーさんの魅力は、学校へ行く前の子どもの生きている世界の楽しさにあるといいます。
大人がひとりも出てこない、大人の息吹すらかからない楽しさ。

英語のファンタジー(空想)という語のギリシア語の語源は「眼に見えるようにすること」だそうです。
ハーバード・リードによれば「空想とは、時間空間の秩序から自由である恣意性とともに、眼に見えるような鮮やかさと合理をそなえた客観性を持つ」そうです。
「恣意性」っていうのは、辞書によると、「音声面とそれが指示する意味面との結びつきは必然的なものではなくて、社会慣習的な約束事としてのものであるということ。ソシュールの理論の基本的概念の一つ」だって。
瀬田先生は、恣意性と合理性は相反するようだが深いところで結びついていると言います。そして、「大人の世界と別に生きている子どもの世界」の存在が、それだと言います。
大人は、子どもの空想壁なんていうけれど、そうじゃなくて、あれは子どもの特別な世界なんだと。
だから、瀬田先生は、
プーの本は、中途半端な大人にはわからない
というのです。

プーさんはイギリスのファンタジーの伝統から生まれたものだけれど、伝統といっても、いろんな形がある。で、デ・ラ・メアと比較しています。

『ムルガーのはるかな旅』
子ども心は神秘的で広大無辺で、昇華された音楽でもあり詩でもあって、ふしぎがそのまま個々の現象に照りかえってくる
『クマのプーさん』
一人息子のクリストファー・ロビンと遊びながら、作者は自分の子どもの頃を生きた。自分が子どもにたちもどった瞬間を見、聞き、全才能を傾けて紙の上に移しとめた。だから、空想の世界でありながら大変リアリティがある。

引用。
A・A・ミルンはケネス・グレアムの『たのしい川べ』について、「これは、家庭備え付けの本だ。・・・ただし、家のだれもが好むといっても、実のところこの本の真価を心から味わうのは、諸君がじぶんひとりだけだと思いこみ、ほかの者にはわかるまいと感じる、そういう本である」と述べているが、この言葉はそっくりそのままプーの本にもあてはまる。ぼくはぼく一人がわかると思い、あなたはあなた一人の本だと思う

ははは、見透かされたか~~~