月別アーカイブ: 2020年4月

「『くもの糸』は名作か」再論📗

『瀬田貞二子どもの本論文集児童文学論』報告つづき

え?
そう、まだ続くのですよ~

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《本について、映画について》
「『くもの糸』は名作か」再論 1957年発表

『くもの糸』は、芥川龍之介の作品。おはなしひろばでもUPしてますね~

古田足日さんの「『くもの糸』は名作か」という文章に対して瀬田先生が反論している論考です。
ずいぶん古い論考なのと、もとも古田足日さんの文章を見ていない(図書館休館中~)ので、簡単な報告にとどまりますが、お許しくださいね。

瀬田先生は、古田さんの「くもの糸」批判を3つの点から再批判しています。

1つめ
古田:説話的作品だから、文学でなくて二流の読み物だ。
瀬田:説話、ここでは昔話は、庶民が長い間口伝えで守ってきたものだから、個性的な表現もモラルもなく、公約数的に集約された本質だけが残る。近代小説とは異なって当然。だからといって文学ではないと言えない。というか、説話を下等だとみてはいけない。
引用
説話性を抽出するなら、発端、展開、クライマックス、結果という型どおりの段取りを持つ昔話の形式が、肝心かなめであるといわなければならない。・・・その形式の中で普遍的な面白さを醸し出している

2つめ
古田:テーマは観念的な勧善懲悪。内面を独自な思想で描いていない。
瀬田:勧善懲悪をテーマとすることが、なぜいけないのか。また、「くもの糸」が単純な勧善懲悪ものとは考えない。
片岡良一『近代日本の作家と作品』からの引用
どれほど悪に染まった人間でも、彼が人間である以上、かならず一掬の慈悲心は持っている、それが人間本来の相なのだという、そういう明るい人間肯定がそこに見いだされる。・・・(けれども)人間は本来人間のものである慈悲心に徹することのできない中途半端さを持っているのだ。-そう考えて、作者はお釈迦様と一緒に嘆息するのである。

3つめ
古田:描写は、内容から生まれず、子ども離れしている
瀬田:児童文学での決定的な評価の担い手は、あくまでも子ども自身。ただし、子どもたちは論理的に評価を述べることはできない、時間をかけて保持するか忘れ去るかで評価する。こどもに読んでやると、印象的な描写は少なからずある。が、煩わしい描写がある。

結論として、瀬田先生は、「くもの糸」には弱さがあると言います。それは、描写が弱いことで、内容も弱くなっていることです。だから子供の文学として一流たり得ないと。
引用
子どもたちが文学で得るさいごのものは感動であり、深い経験となって沈潜していく性質の力である。芥川の「くもの糸」には、それが希薄だった。

さてさて、みなさんは、子どもの頃「くもの糸」をどう読みましたか?
ヤンは、糸につかまって下を見ているカンダタが、絵としてめっちゃはっきり見えたことを覚えています。絵本とか挿絵とかじゃなくて、自分が見たイメージね。それと、糸が切れる直前のハッとした緊張!
児童文学としてどうなんだろう。わたしにとっては、印象深い作品だったけど。

ノートン『床下の小人たち』🚪🛏

『瀬田貞二子 どもの本論文集 児童文学論上』の報告つづき~

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第2章ファンタジー
《夢みるひとびと》ノートン『床下の小人たち』1975年発表

メアリー・ノートン(1903-1992)
【瀬田先生がこの論考を書いたときは、ノートン72歳だったんですね。】
1943年『空とぶベッドと魔法のほうき』最初の子ども向けの物語
1952年『床下の小人たち』カーネギー賞
借りぐらしのシリーズは、『野に出た小人たち』1955年、『川をくだる小人たち』1959年、『空をとぶ小人たち』1961年の4作品。

ノートンは、子どもの頃から、近くの土手や、木の根、もつれ合った草むらなどを舞台に、小さな人形を動かして、物語を作っていたと言います。はるかな森などの大きな世界を見なかったのは、近眼だったからだと、本人が言っています。

近眼だったことと孤独と人形とが、幼いノートンの想像力を育み、そののちの演劇の経験と2度の世界大戦をくぐって得たテーマが、語る者(ケイト)と語られる者(アリエッティ)に仮託されて、4人の子どもたちに与えられたと、瀬田先生は創作の動機をまとめています。

『床下の小人たち』を他の作家と比較します。
ネズビットの影響:『空とぶベッドとまほうのほうき』のときは影響が大きかった。『床下の小人たち』は、主題・構成・描写どれも個性的。
トールキン:トールキンは遠視型、ノートンは、草の根を分けるような近視型
ゴッデン:ゴッデンの『人形の家』はアンデルセンふうの寓意、ノートンの小人は、寓意ではなく人間から独立した存在としてのリアリティをもつ
B・B(ワトキンズ=ピッチフォード):小人族の衰退という視点は同じだが、彼のは博物誌的。

特徴

1、テーマ:借りぐらし族という小人の遍歴
借りぐらしの小人は魔力を持ちません。ひたすら人間からものを借りて、人間を恐れ、人間に見つからないように暮らしています。見つからないため、種族を守るために、彼らは巡り歩くのです。
引用
自己と種族を守る無力な小人が、人間から借りていく性質だけを与えられたとき、あらゆる強権に対して自ら守るほかない私たちの個的存在が、あるいは「内なる我」が象徴的にうきあがってくる。

2、細密画のような描写
テーマを生かすも殺すも描写次第。
細部の刻銘緻密な描写によって、まるで触れるほどのリアリティが生まれています。
その魅力は、読んでみないとわからない(笑)
ほんと、シルバニア以上の愉しさがある(あ、これはヤンの印象。瀬田先生はこんなこと書いてません~)
ところで瀬田先生は、スタンレーの挿絵をべたほめしています。

 

3、構成にみるドラマツルギー
ドラマ、つまり演劇の手法で全体を構成しています。
貼り付けますので、実際に作品を読みながら検証してください。リズムが分かります。

はい、今日はここまで~

ファージョン『リンゴ畑のマーティン・ピピン』🍎

『瀬田貞二 子どもの本論文集 児童文学論上』の報告つづき~

さあて、いよいよファージョンですよ~
ストーリーテリングでも憧れている人たち、多いですね~

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第2章ファンタジー
《夢みるひとびと》ファージョン『リンゴ畑のマーティン・ピピン』1974年発表

エリナ―・ファージョン(1881-1965)
詩人・作家
この時代にしては多作の詩人・作家です。
『リンゴ畑のマーティン・ピピン』(1921年)は、出世作であるとともに代表作。
『ムギと王さま』(年)は、過去の作品の自選集。カーネギー賞とアンデルセン賞をとります。
ヴィクトリア時代と現代を結ぶ最も強力な絆として、両時代の特色をかねそなえています。

『リンゴ畑のマーティン・ピピン』創作のきっかけ
彼女が兄弟の間で自信のない(というか、精神的に自立できない)まま自活しなければならなくなったとき、ひとりの妻子ある男性に密かに恋をします。彼は第一次世界大戦で、出征して戦死します。
『リンゴ畑のマーティン・ピピン』の第3話は、彼と彼の妻への思いが結晶したもので、この第3話を中心にして全体が作られているのです。

この作品の特質

1、テーマは恋愛。
だから、当時、これは児童文学なのかどうか議論があったそうで、ファージョン自身も子どもの本とは考えていなかったようです。これを児童文学ととらえたのは、アン・キャロル・ムア。
今では、恋愛は児童文学のテーマの一つですけれど。
続編の『ヒナギク野のマーティン・ピピン』は子どものために書かれているそうです。

2、枠物語の形をとっている。
枠物語については《昔話雑学》で書いていますよ~。復習しましょ!
ファージョンが、中世にあこがれ、ドイツ文学を愛した、その現れだろうと瀬田先生は言っています。

3、郷土にゆかりのある風土的文学
イギリスのサセックス州のなんと美しい情景、美しい唄が描かれていることでしょう。

構成
初・中・終の三幕のオペレッタ風の展開
プロローグとエピローグがあり、前奏曲と後奏曲があって、6つの物語が、間奏曲をはさんで語られます。
音楽的です。だから、繰り返しが多用されます。

物語
6つの物語は、どれも昔話などの伝承風の作風です。
『ムギと王さま』よりもはるかにロマンティックでみずみずしいと、瀬田先生は言います。

創作法
引用です。
彼女は若い時から着想に苦しむことはなかった。街上所見、耳に挟んだ寸語、読書のヒント、いろいろなところからアイデアが吸い寄せられてくる。なかでも土くさい民俗のかずかず、遊びや遺留、伝説や遺跡、古い風俗などが彼女に多くのアイデアを与え、それからそれへと空想の翼が生えて、ある事件の雰囲気ができる

実在のものが、ファージョンの魔法の杖のひとふりで、実在のまま別の意味を与えられて、きらびやかな夢に変わるのです。
この魔法にかかってしまう人のなんと多いことか。
幼い子には難しいのですが、ファージョン自身は、子どもはわかりにくさを恐れないだろうと信じていて、作品の根本にある子どもらしさを汲みとってほしいのだろうと、瀬田先生は言います。

ファージョンを語るかたたち、もう一度『リンゴ畑のマーティン・ピピン』を読み返せば、彼女の特質を見直せるかもしれないですね。

はい、きょうは、ここまで。

デ・ラ・メア『三びきのサル王子』🐵

『瀬田貞二 子どもの本論文集 児童文学論上』の報告つづき

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第2章ファンタジー
《夢みるひとびと》デ・ラ・メア『三びきのサル王子』1975年発表

『三びきのサル王子』は、『ムルガーのはるかな旅』として岩波少年文庫で読めます。脇明子訳。

ウォルター・デ・ラ・メア (1873-1956)
詩人・作家
幻想的で神秘的な詩を書く人です。

『ムルガーのはるかな旅』は、作家として早い時期1910年に発表。4人の我が子に読んで聞かせたそうです。
やはり詩的ということもあって、今日に至るまで賛否両論、好悪両端にわかれるそうです。
ヤンは、今回きちっと読んでみて、深く感動しましたよ。途中でやめられなくなって、晩ご飯が遅くなってしまった(笑)

ムルガーとは、デ・ラ・メアの言葉で猿のことです。
人間の話ではないのでとっつきにくいかもしれませんが、とってもリアリティがあるのです。
まるで人間の物語のようでいて、猿の物語なのです。

三匹の猿は、ティシュナー(これも造語)という理想郷・涅槃を探し求めて艱難辛苦の旅に出ます。ティシュナーは、「ムルガーの生活を超えた、ふしぎな世界、秘密な静かな世界」のことです。

山に住む美しい女神としてのティシュナー

瀬田先生は、ティシュナーの描写について、デ・ラ・メアの才能をこう言います。
引用。
表現しがたいものを表現してみせ、五感のおよびがたいものを形にしてくれる才能・・・親しい日常のものの中にあるふしぎ、平凡なのもにひそむ美しさをもとりだしてくれる能力

『ムルガーのはるかな旅』から感動的な描写を紹介します。
「流れの中の真砂のように、おまえの思いのさらさら動く音がきこえることよ」
「かつて愚かなことをしでかさなかった賢者が、あるだろうか?」

旅の終わりごろの絶体絶命の状況の中での、山びととの友情、水の精の悲しみと愛情。
当時も今も子どもには深すぎて理解しがたいといわれてきたデ・ラ・メア作品ですが、決してそうではないと、瀬田先生は言います。

デ・ラ・メアは、何事にも最良のりっぱなものだけが、子どもにふさわしいと考えていました。